【雑記】エセ日記の欺瞞性を乗り越えるために

ブログは日記形式で綴られる。


従って身の回りの出来事や日々の想いを気儘に記録していくダイアリー向きのメディアではある。けれどプライベート設定の非公開で記入するのではなくパブリックに公開しようという意思が働く時点で、それはもう本質的な意味での「日記」ではない。必ず誰かの目に晒され読まれることを期待して書かれる「記事」となる。


人目に晒したくないプライベートな内容だけは絶対に書かないという意思が介在し、書くべきものと書かざるべきものとを恣意的に峻別するという意味において、それはもう日記の体裁を偽装した"エセ日記"であり、二重帳簿ならぬ"二重日記"である。


このブログを始めるに当たってまずやめようと思ったのは、そのような身辺雑記をさも友人に語りかけるかのごとく、親しげでちょっと馴れ馴れしいような口調で書き綴る行為だった。他人に自分の日記を公開しているように見せかけて、その実、一番肝心のことだけは絶対に書かないというねじれた構造。何より唾棄すべきなのは、その欺瞞性に書き手自身が無自覚なことである*1


しかし「日記」ではなく、日々撮影した身辺の写真を淡々と掲載するというのであればどうだろう。ふとそんなことを思い立ってカテゴリーに「写真貼」を追加してみることにした。基本的にコメントは載せない。写真が何よりも雄弁に語っているからであり、そこに付け加える要素などない。載せるとしても撮影場所や時刻程度の客観的な事実だけ。


見せたくないものまで見せるようなことはしないし、そのような写真は初めからオミットしている。そういう意味では、言葉で綴る「公開日記」と本質的に大きな違いはないが、言葉を尽くせば尽くすほど本質が見えなくなっていくような嘘臭さを多少でも回避できるのであれば、それで充分だと思う。写真はシンプルであればあるほど良い。言葉もそうあるべきなのだ、本当は。


ただし、写真の方が誠実で嘘をつかないなどとは断じて言わない。逆である。写真は大いに嘘をつく。見る者が受け止める印象や解釈が必ずしもそれを撮った者の思いを正しく受け止めているとは限らない。しかし撮る者が意図したものを見る者が寸分違わず受け止めたからと言って、それの何が面白いというのか。


誤読、おおいに結構。
むしろ独自の解釈を導き出す可能性に賭けることの方が遥かに生産的で素晴らしいことではないだろうか。


(2011/07/06 記)

*1:私の舞台探訪の記事やイベント・レポは「です・ます」調で統一しているが、これは人に読んでもらうことを前提として書いているので構造的なねじれは比較的少ないと思っている