【小論】異邦人としての少女たち:『異国迷路のクロワーゼ』『うさぎドロップ』

今夏の新TVアニメ『うさぎドロップ』を見た。このテイストはとても好きだ。誰かが『蟲師』に似た雰囲気があると書いていた。内容はまったく違うが確かに演出面で似た空気を感じる。語り過ぎない台詞、抑え気味の色調、シンプルな描線のキャラクター、控えめでいながら重厚なBGM、沈黙と余白。それらの効果が相俟って先行する諸作品を連想させるのかもしれない。


最近、涙腺がすっかり弱くなっているのか、第1話でいきなりボロ泣きさせられた。7月スタートの今期は『異国迷路のクロワーゼ』とこの作品だけでも個人的には充分な収穫だと思っている(ダークホースは『輪るピングドラム』)。


また併せて『異国迷路のクロワーゼ』第2話も見た。原作ではPartie 1.1に当たる部分で、実はわずか8ページのショートストーリーなのだが、若干のオリジナル展開も含めて、きっちり尺に合わせた作品になっていた。ちなみに第1話は原作では38ページあるので密度の濃い感じがあったが、第2話は原作のページ数が少ない分、逆に隙間を活かしたゆったりした空気が感じられてとても良かった。



異国迷路のクロワーゼ』『うさぎドロップ』。どちらの作品にも少女が主役として登場する。一見してロリアニメと受け止める向きもあるだろう。けれど両作品に共通しているのは、彼女たちを取り巻く共同体が本質的に異質の存在であって、彼女たちの身を守り、安逸を保証してくれるような優しい場所ではないということだ。片や異文化との衝突、片や親戚縁者の誰も望んでいなかった隠し子という身分。時にヒリヒリと身を焼くような"異邦人"としての感覚。


けれど彼女たちは、自分の居場所を見つけ出すためにそこから一歩前へ踏み出そうとする。だから彼女達はとても健気で、その姿は見る人の心を打つ。彼女たちを見つめる物語の視線…そこには大人が性的な愛玩物を舐め回すようなロリコン的視線はない。両作品とも少女を描きながら、その要素は入念に省かれている。


彼女たちの庇護者となるクロードやオスカー、それに大吉にしても、決して性愛の対象として彼女たちを見ていない。自分たちが守るべきものとしての少女像である。それをロリと呼ぶなら言わば言え。両作品が共有する小さく儚いものを慈しむような優しい視線は作品に凛とした気品を与えている。そこが素晴らしい。


(以下『クロワーゼ』の一部ネタバレを含みますのでご注意下さい)

更に言うなら、ここには「父性」の視点がある。これは近年のアニメに大きく欠けていた要素だと思う。


「父性」と言えば、例えば『新世紀エヴァンゲリオン』におけるシンジとゲンドウとの関係に顕著な「乗り越えるべき父」としてのエディプス的関係か、さもなくば強力な「母性」の影に隠れた希薄な存在感しか持たない記号のような「父」の姿でしかなく、全てを抱擁する庇護者としての(究極的には賢者としての)父性が描かれる例はあまりない。むしろアニメを消費する側が「父」的なるものを潜在的に忌避していたと言えなくもない。


無論、『クロワーゼ』のクロードはまだ若く独身であり、父親としての経験も感慨も持ちえないが、彼と父との間で起こったある悲劇が彼をして父への贖罪と悔恨の思いを抱かせ、それがユネを守る強い意志の源泉となってゆく。その意味でクロードは、若くして「父性」を発露するに充分な資質を持った人物であると言えるだろう。この辺りはアニメ版ではまだ先の展開になるが、原作の2巻までを読了した方であれば首肯して頂けるはずだ。


父と子の関係性が大きく変質した今の時代に見合った「父性」を真正面から描くアニメや漫画がもっとあってもいい。だから『TIGER&BUNNY』の虎徹のような子持ちの中年がアニメの主人公として描かれ、それが人気を得ているという事実はとても興味深い。このようなキャラクターが揶揄でも皮肉でもなく真正面からしっかりと描かれ、また『クロワーゼ』や『うさぎドロップ』のような地味ながら良質な作品が制作されるという状況は、萌えや腐の要素の中で自家中毒を起こしつつあるアニメや漫画が、その多様性と成熟の度合いを深めていることの証であるように思えて、まだまだアニメーションの表現の可能性というものを信じてみたくなるのだ。


(2011/07/14 記)