【小論】『坂道のアポロン』:村上春樹の『ポートレイト・イン・ジャズ』を手引きに時代背景を辿る

前回の記事からの続き、および補足です。
→前回の記事【小論】『坂道のアポロン』:ムカエレコードの棚にある14枚のJAZZ名盤 + 『けいおん!』のジャズ研とのつながり


佐世保の街とJAZZがモチーフである『坂道のアポロン』の時代設定は、昭和40年代の初め(1966年~)です。当時の世相やポピュラーミュージック・シーンの動向は一体どのようなものだったのでしょうか。ごく簡単に整理してみます。


1960年代半ばと言えば、ビートルズローリング・ストーンズらに代表される英国のロック・バンドが全米で大成功を収め、後に第一次ブリティッシュ・インヴェイジョンと称されるムーブメントを巻き起こしていた頃で、その熱狂と興奮がアメリカ経由で全世界へと広まっていた時期です*1。勿論、日本も多大な影響を受けており、1966年6月のビートルズ初来日の狂騒は今も歴史的事件として語り継がれています。音楽が世界を変えると誰もが信じて疑わなかった時代でした。


更に米国内では、英国勢の刺激を受けたボブ・ディランがエレクトリック・ギターを手に取り、旧来のファンから激しく非難を浴びた頃で、東海岸からはヴェルヴェット・アンダーグラウンドが、西海岸からはヒッピー・ムーブメントの興隆と共にグレイトフル・デッドやジェファーソン・エアプレインらがそれぞれデビューして活動を開始しています。ドアーズの登場もこの時期です(これらのバンドはいずれも1965年に結成されています)。ドラッグと切り離せないカウンター・カルチャーが活性化したその背後には、長期化して泥沼化しつつあったベトナム戦争があり、公民権運動があり、アポロ計画がありました。時代の様相が急転回しつつあった激動の季節です。


そして1966年当時の日本はと言えば「高度経済成長期」の真っ只中にありました。2年前の1964年には東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催されています。日本の総人口が一億人を突破し、いざなぎ景気の活況に誰もが心沸き立たせた頃。カラーテレビ、クーラー、自家用車の普及が加速して「新三種の神器」と喧伝され、ビートルズの初来日に揺れ、グループ・サウンズが登場し、テレビでは『ウルトラQ』と『ウルトラマン』に始まるウルトラシリーズが放映を開始。加山雄三の「君といつまでも」や、美空ひばりの「悲しい酒」が大ヒットしたのもこの年です。


坂道のアポロン』は、このような時代を背景としています。


国全体がどこか熱に浮かされたようになっていたその頃、同時代的な動向を尻目に50年代~60年代前半のJAZZに夢中になっている地方都市の高校生の姿に、私は反射的に作家の村上春樹を思い出しました。中学生の頃からJAZZの熱心なレコード蒐集家で、ジャズ喫茶を経営していたこともある村上氏は1949年の生まれなので、1966年当時は17歳。まさに『坂道のアポロン』の登場人物と同世代です*2。当時、実際に高校生だった村上氏の眼に1966年前後のJAZZをめぐる状況はどのように映っていたのでしょうか。


村上氏がJAZZへの想いをストレートに語った名著『ポートレイト・イン・ジャズ』村上春樹和田誠共著) *3で、ホレス・シルヴァーの思い出を語る文中に以下のような一節があります。

「当時ブルーノート・レコードは日本でのプレスを認めなかったので、輸入盤でしか手に入らず、値段は2800円もした(1ドル=360円だった)。なにしろコーヒーが60円で飲めた時代だから、ずいぶんな金額だ。なかなか高校生には手が出せない。だから一枚のレコードを手に入れると、心をこめて聴いた。ビクターの商標に使われている、蓄音機のラッパの中に頭を突っ込んでいる犬みたいに、文字どおり一音一音に深く耳を傾けた。ガールフレンドよりも大事に、とまではいかずとも、負けず劣らず大事にレコードを扱った。」
『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫:P.176)

坂道のアポロン』に登場する「ムカエレコード」のJAZZコーナーに並ぶLPレコードは、よく見ると"帯"がありません。しかし画面手前の棚にあるレコードはどれもLPの左側に帯が巻かれていますし、別カットで海軍兵が物色しているコーナーのLPにも全て帯が付けられています。

CDの時代まで受け継がれた"レコードに帯をつける"という販売方法は日本独特の文化で、元々は海外からの輸入レコードを国内で販売する際に日本語の解説文を巻いたことが始まりとされています。その後、国内でプレスされるLPレコードのジャケットにはほぼ必ず帯が巻かれるようになりました。


しかし前述の通り、「ムカエレコード」では"JAZZに限って"その帯がありません。ということは、この店で販売されているJAZZのアルバムは国内盤ではなく全てアメリカから直接仕入れた輸入盤なのだろうと推測できます。村上氏の文章にあるようにBlue Noteレーベルは国内盤のプレスが認められていませんでしたが、他レーベルの国内盤にしても熱心なJAZZファンのニーズに応えられるほど数や種類が豊富ではなかったこと、また国内盤よりも海外の原盤の方が音質が良かったという品質面の事情もあって、コアなJAZZファンは専ら輸入盤を購入することの方が多かったのです。


同書から村上氏の文章をもう一箇所抜粋してみます。

「・・・しかし値段以上に嬉しかったのは、このレコードの音質が目が覚めるほど素晴らしかったことだ。ぱっとしない音質の国内盤でさえずっと感心して聴いていたんだけど、新しく手にしたオリジナル盤を一聴して、これまで目の前にかかっていたヴェールがぱらっとはがれ落ちたような新鮮な驚愕を覚えることになった。」
『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫:P.212)

「ムカエレコード」のJAZZコーナーに帯のついた国内盤が1枚もないのは、もしかするとこういった事情を考慮した上での店主のこだわりなのかもしれません。米国文化が活発に流通していたであろう佐世保の街はいつも身近にJAZZがあって、大都市圏の東京や大阪と変わりないくらい早く新譜を入手できる環境だったのだろうと思います。



佐世保の街とJAZZとの強い繋がりは今も変わりはなく、20年間に渡って毎年秋に開催されてきた西日本最大規模の野外ジャズフェスティバル"SUNSET JAZZ FESTIVAL"は、2011年から別の2つのイベントと統合し、新しく"佐世保JAZZ"の名の元に生まれ変わりました。その主催者へのインタビュー記事の中に佐世保とJAZZが共に歩んだ歴史を簡潔にまとめたとても良い文章がありますので、以下に抜粋してみます。

「・・・ここで佐世保とジャズの歴史を振り返ってみる。昭和25年に朝鮮戦争が勃発。アメリカ軍への物資の補給のほとんどが日本で行われ、佐世保港はその最前線となった。その朝鮮特需で佐世保は沸き立ち、佐世保に集結した兵士や後方支援の米軍関係者のための娯楽産業が発生したのは言うまでもない。女たちが全国から集まり、ジャズを演奏する音楽家たちも佐世保へと流れてきた。昭和26年から30年頃までの当時、市内には民間のホールやキャバレーが15ヶ所ほど、米軍関係のクラブが9ヶ所あった。いずれもバンドをかかえており、その数30バンド以上、200人以上ものミュージシャンが、この小さな地方都市で食べていたという事実に驚かされる。その中には当時のナンバーワントランペッター南里文男をはじめ、原信夫、スマイリー小原など、後に東京で大活躍することになるミュージシャンもいたという。」

このような街の特性を思えば、1966年当時、世界中を揺るがしていたRockには目もくれずJAZZに夢中になる高校生がいたとしても何ら不自然ではありません。佐世保という街は、いわば『坂道のアポロン』のもう一人の主役と言っても過言ではないと思います。ひとつの土地=固有の場から紡ぎ出される「物語」、或いは「物語」を生成する場の持つ力。そのような「場所」と「物語」とが分かち難く結びつく力学に私は否応なく惹きつけられます。佐世保の街へ行ってみたい・・・そう思わせる力が『坂道のアポロン』にはあります。


それにしても1ドル=360円というレートであった当時、海外からの輸入盤レコードはなかなか手の出ない高価な代物だったはずです*4。高校生でありながら、さらりと「これ下さい」とLPを買っていく薫はやはり"お坊ちゃま"なのでしょうね。


(2012/04/22 記)

*1:もっとも、英国ロックの影響は一方的なものではなく、例えばビートルズのメンバーがボブ・ディランや、ビーチ・ボーイズブライアン・ウィルソンから多大な影響を受けていたように、ミュージシャン同士は英米相互に共振し合うような関係にありました。

*2:佐世保市と言えば、もう一人の「村上」である同市出身の作家「村上龍」の存在を忘れることは出来ませんが本稿では触れません。

*3:タイトルは勿論、Bill Evansの名盤から!

*4:1964年頃の大卒初任給は2万円程度。輸入盤LP1枚が約3千円程度。個人が自分で買って聴くにはレコードは非常に高価な代物でした。そのため、お金のないジャズファンは皆ジャズ喫茶へ通い詰めた訳です。