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【小論】『氷菓』第8話:「十戒」「二十則」に「九命題」が加えられている理由に関する一考察


入「そこで最初の質問だけど、犯人は誰だと思う?本郷はこれから解決篇というところで倒れた。見る者が見れば犯人を割り出すことが出来るはず」
里「でも、素人が書いた脚本に、ちゃんと手掛かりが撒かれているんですか?」
入「それなら大丈夫。あの子はミステリーの勉強をきちんとしていた。十戒も九命題も二十則も守っていたはずよ」
里「へー」
奉「モーゼの十戒か?」
里「いや、ノックスの十戒だよ。九命題も二十則も探偵小説におけるルールを謳った文句だよ」
入「そう、つまりトリックを解く鍵はフェアに提示されているということ。それを踏まえた上で、『犯人』は誰だと思う?」
(TVアニメ『氷菓』第8話より)

※以下の文章は『氷菓』第8話の内容の詳細に触れていますので、未視聴の方はご注意ください。


TVアニメ『氷菓』の第8話から始まった古典部シリーズの長編第2作『愚者のエンドロール』篇。制作を中断したミステリ映画の顛末を巡る、シリーズ中で最も本格推理小説の要素の強い傑作です*1。その初回となる第8話において、本編の主要な登場人物である"女帝"入須冬実が、ホータローたち古典部の4人に制作半ばで中断している映画を見せた後、この事件の犯人を当ててほしいと依頼します。脚本を担当した仲間(=本郷真由)が倒れてしまい、結末が誰にも分からなくなっていて、この先の撮影が出来ないのだと。本郷はマンガを描いた経験があるという理由だけで映画の脚本を任された、いわば全くの素人です。ミステリも殆ど読んだことがない。福部里志は、そんなミステリの初心者が書いた脚本の中に犯人を当てる手掛かりがちゃんと書かれているのかと疑念を表明します。それに対する入須の答えが冒頭の言葉です。アニメでは字面が見えないので聞き逃した方もいるかと思いますが、「じっかい きゅうめいだい にじゅっそく」は「十戒・九命題・二十則」と表記します。


「十戒・九命題・二十則」とは、それぞれ「ノックスの探偵小説十戒」(1928年)、「レイモンド・チャンドラーの九つの命題」(1944年,1949年)、「ヴァン・ダインの探偵小説作法二十則」(1928年)を指します。いずれもミステリを書く際の心得を書き記したもので、その歴史は古く、十戒や二十則に至っては同じ1928年(昭和3年)に発表されています。


いわゆるミステリ=探偵小説・本格推理小説という文学ジャンルの登場はエドガー・アラン・ポオの『モルグ街の殺人』(1841年)を嚆矢としますが、隆盛を極めたのは第一次世界大戦第二次世界大戦の狭間の時期、つまり英米の大戦が束の間の平和を見せた1920~30年代です。コナン・ドイルアガサ・クリスティ、G.K.チェスタートン、F.W.クロフツヴァン・ダインエラリー・クイーン、ジョン・ディクスン・カー・・・。今の時代にも受け継がれる海外ミステリの代表作家が綺羅星のごとく登場した時代です。「十戒」も「二十則」もこのミステリ百花繚乱の時期に発表されています。


ここで3つの法則集を紹介しておきましょう。

(こちらのPDFファイル→十戒・二十則・九命題.pdf 直で一覧表形式でご覧頂けます)


ノックスの十戒
1.犯人は小説の初めから登場している人物でなくてはならない。又、読者が疑うことの出来ないような人物が犯人であってはならない。(例、物語の記述者が犯人)
2.探偵方法に超自然力を用いてはならない。(例、神託、読心術など)
3.秘密の通路や秘密室を用いてはいけない。
4.科学上未確定の毒物や、非常に難しい科学的説明を要する毒物を使ってはいけない。
5.中国人を登場せしめてはいけない。(当時の欧米における人種観の反映)*2
6.偶然の発見や探偵の直感によって事件を解決してはいけない。
7.探偵自身が犯人であってはならない。
8.読者の知らない手がかりによって解決してはいけない。
9.ワトソン役は彼自身の判断を全部読者に知らせるべきである。又、ワトソン役は一般読者よりごく僅か智力のにぶい人物がよろしい。
10.双生児や変装による二人一役は、予め読者に双生児の存在を知らせ、又は変装者が役者などの前歴を持っていることを知らせた上でなくては、用いてはならない。


ヴァン・ダインの二十則
1.事件の謎を解く手がかりは、全て明白に記述されていなくてはならない。
2.作中の人物が仕掛けるトリック以外に、作者が読者をペテンにかけるような記述をしてはいけない。
3.不必要なラブロマンスを付け加えて知的な物語の展開を混乱させてはいけない。ミステリーの課題は、あくまで犯人を正義の庭に引き出す事であり、恋に悩む男女を結婚の祭壇に導くことではない。
4.探偵自身、あるいは捜査員の一人が突然犯人に急変してはいけない。これは恥知らずのペテンである。
5.論理的な推理によって犯人を決定しなければならない。偶然や暗合、動機のない自供によって事件を解決してはいけない。
6.探偵小説には、必ず探偵役が登場して、その人物の捜査と一貫した推理によって事件を解決しなければならない。
7.長編小説には死体が絶対に必要である。殺人より軽い犯罪では読者の興味を持続できない。
8.占いとか心霊術、読心術などで犯罪の真相を告げてはならない。
9.探偵役は一人が望ましい。ひとつの事件に複数の探偵が協力し合って解決するのは推理の脈絡を分断するばかりでなく、読者に対して公平を欠く。それはまるで読者をリレーチームと競争させるようなものである。
10.犯人は物語の中で重要な役を演ずる人物でなくてはならない。最後の章でひょっこり登場した人物に罪を着せるのは、その作者の無能を告白するようなものである。
11.端役の使用人等を犯人にするのは安易な解決策である。その程度の人物が犯す犯罪ならわざわざ本に書くほどの事はない。
12.いくつ殺人事件があっても、真の犯人は一人でなければならない。但し端役の共犯者がいてもよい。
13.冒険小説やスパイ小説なら構わないが、探偵小説では秘密結社やマフィアなどの組織に属する人物を犯人にしてはいけない。彼らは非合法な組織の保護を受けられるのでアンフェアである。
14.殺人の方法と、それを探偵する手段は合理的で、しかも科学的であること。空想科学的であってはいけない。例えば毒殺の場合なら、未知の毒物を使ってはいけない。
15.事件の真相を説く手がかりは、最後の章で探偵が犯人を指摘する前に、作者がスポーツマンシップと誠実さをもって、全て読者に提示しておかなければならない。
16.よけいな情景描写や、わき道にそれた文学的な饒舌は省くべきである。
17.プロの犯罪者を犯人にするのは避けること。それらは警察が日ごろ取り扱う仕事である。真に魅力ある犯罪はアマチュアによって行われる。
18.事件の結末を事故死とか自殺で片付けてはいけない。こんな竜頭蛇尾は読者をペテンにかけるものだ。
19.犯罪の動機は個人的なものがよい。国際的な陰謀とか政治的な動機はスパイ小説に属する。
20.自尊心(プライド)のある作家なら、次のような手法は避けるべきである。これらは既に使い古された陳腐なものである。(詳細はPDFファイルを参照のこと)


チャンドラーの九命題
1.初めの状況と結末は納得できる理由が必要。
2.殺人と操作方法の技術的な誤りは許されない。
3.登場人物、作品の枠組み、雰囲気は現実的たるべし。
4.作品の筋は緻密につくられ、かつ物語としてのおもしろさが必要。
5.作品の構造は単純に(最後の説明が誰にもわかるように)。
6.解決は必然的かつ実現可能なものに。
7.謎解きか暴力的冒険談かどちらかに。
8.犯人は罰を受けねばならない。
9.読者に対してはフェアプレイを(データを隠してはならぬ)。


「十戒」のロナルド・A・ノックスは、ミステリ作家としての知名度は先述した作家陣には残念ながら及びませんが、「十戒」を書いたことでミステリ界に今もその名を残しています。代表作の『陸橋殺人事件』創元推理文庫で入手可能です(2012年6月時点)。

ロナルド・A・ノックス
「二十則」を記したヴァン・ダインは、1920~30年代のミステリ黄金時代*3にドイルやクリスティといった英国勢に対抗するように米国から登場した作家です。作品名はすべて「~殺人事件」で統一され、特に『グリーン家殺人事件』『僧正殺人事件』は彼の代表作にして最高傑作です*4

S・S・ヴァン・ダイン
後世への影響度で言えば、「十戒」と「二十則」は双璧でしょう。当時現役のミステリ作家が発表したこれらの原理原則は、いずれもWho done it?(フーダニット=誰が殺したのか? )*5をミステリの最高の流儀と捉えた上で、犯人捜しを巡る作者と読者の知恵比べという"高度な知的ゲーム"の場へとミステリの質を格上げするために、作者が守らなくてはならない公正なルールを定めようと企図されたものです。そう、スポーツのルールと同じように。


しかし「九命題」だけは、書かれた時代も論点も作者のミステリへの立ち位置も先の2つとはかなり異なります。筆者のチャンドラーはいうまでもなく、『長いお別れ』『さらば愛しき女よ』で著名なハードボイルド小説の巨匠レイモンド・チャンドラーで、発表時期は「十戒」「二十則」の1928年より後年の1944年です(1949年に改訂されているようです)。

レイモンド・チャンドラー

「十戒」「二十則」は奇しくも同じ年に発表されたことと、ミステリ大国である英国(ノックス)・米国(ヴァン・ダイン)それぞれの現役ミステリ作家の提言であり、かつ内容的にも共通点が多いこともあって、この2つはセットで語られることが多いのですが、ここに「チャンドラーの九命題」を加えるという例を私は寡聞にして知りません。私の知る限りでは、殆ど聞いたことのない組み合わせです。そもそもチャンドラーがこのような命題を提唱していたことすら今回初めて知ったくらいです。


ここでひとつの疑問が湧いてきます。なぜ広く知られた「十戒」と「二十則」だけにせず、「九命題」などという知名度の低い法則をわざわざ追加しているのでしょう?


試しに「十戒 九命題 二十則」でググってみると、ことごとくアニメ『氷菓』絡みのものばかり結果が返ってきて、しかもごく最近(2012年6月以降)の記事がずらずら並ぶので笑ってしまいます。次に「十戒 二十則」に絞ってググればどうなるか?やってみて下さい。先程の検索結果がウソのように純然たるミステリ関連の記事が並びます。つまりそれだけ「十戒 九命題 二十則」という3点セットは、ミステリ愛好者にとっては一般的ではないのです。


入須冬実の言う「十戒・九命題・二十則」という3つの組み合わせは、ある程度ミステリに馴染みのある人には大きな違和感をもたらします。違和感ついでに「九命題」に関してもう少し補足説明をしておくと、チャンドラーのようなハードボイルド小説は、既存のミステリへのアンチテーゼと言うべきスタンスに立っていたと言っても過言ではなく、ハードボイルド小説誕生の裏には、旧来のミステリが謎解きゲームに耽溺する余り、なおざりにしてきた人物描写やシチュエーションに対するリアリティの復権という意図がありました。とりわけチャンドラーは、クリスティや同時代のドロシー・L・セイヤーズの作風を激しく批判し、「まったくリアリティがない」とバッサリ切り捨てた当の本人です。そのチャンドラーの提唱するミステリの命題が、現役バリバリのミステリ作家が書き残した原理原則と同じであるはずがなく、それらを一緒に語ることはどう考えても不自然です。


また論点にも明らかな違いが見られます。「十戒」「二十則」はミステリのトリックの委細に踏み込んで「~するべからず」という各論を展開し、ゲームを行う上でのルールの厳格化を訴えているのに対し、「九命題」は物語としての"べき論"を「~すべし」という言い回しで曖昧に唱えるのみで、いわばエンターテインメントの物語を書く上での"当たり前"のことを述べているに過ぎません。率直に言って非常に陳腐です。謎解きのミステリを書こうと志す者が、このようにおよそ実用的ではない「九命題」を参考にするとは思えませんし、参考にしたところで殆ど何の役にも立たないでしょう。


ではあらためて、なぜ「十戒」「二十則」にわざわざ「九命題」が加えられているのでしょうか?登場人物に「十戒」「二十則」と合わせて「九命題」に言及させている作者の意図は何でしょうか?ただのペダントリーなのか、それとも何か重要な別の意味があるのか?「十戒」「二十則」に更に「九命題」を加えることによって初めて明確に浮かび上がってくるもの、それは何でしょうか?


先の3つの法則集の各項目をグループ別に分類して比較してみましょう。同内容を述べている各項目を同じ色でマーキングして並び替えてみました。ただし「九命題」は総論的な内容であるため、各論の「十戒」「二十則」の内容を包含することもあれば部分的に重なる程度のものもあり、扱いには注意が必要ですが、今回は私の判断で「十戒」「二十則」の項目を丸ごと包含するものであれば同内容とみなしました。

十戒・二十則・九命題_グルーピング.pdf 直


いかがでしょう。「十戒」はその8割が「二十則」と一致します。「九命題」の項目は「十戒」「二十則」とは殆ど一致しません*6。そもそもの立脚点や視点が異なるのだから合致しなくて当然なのですが、そんな中にあって「十戒」「二十則」「九命題」の3つに共通するものが唯一つだけあります。黄色のマーキング箇所です。

十戒
・読者の知らない手がかりによって解決してはいけない。
二十則
・事件の謎を解く手掛かりは、全て明白に記述されていなくてはならない。
・事件の真相を説く手がかりは、最後の章で探偵が犯人を指摘する前に、作者がスポーツマンシップと誠実さをもって、全て読者に提示しておかなければならない。
九命題
・読者に対してはフェアプレイを(データを隠してはならぬ)。

ここから何が言えるでしょうか。入須が「十戒・九命題・二十則」と敢えて3つを並べたことの意味。それは"本郷が書いた脚本は、映画を観た人が論理的に犯人を言い当てることが出来るように必要な情報が漏れなく書き記されている"ということを強調するための暗黙のメッセージだったのではないでしょうか。


「十戒」「二十則」を守ったというだけでは、この2つの法則集には共通点が多いので、ぼんやりとイメージはできても話の焦点がはっきりと見えてきません。しかし「九命題」をも守ったという一言を追加することによって、3つの法則集を繋ぎ合わせる唯一の共通ルールである「謎を解く手掛かりは明白に記述されている」という内容がにわかにクローズアップされてきます。そこで多少ともミステリに詳しい(里志のような)者がいれば、すぐさま「どうやら本郷の書いた脚本はフェアに情報が出揃っているらしい」と印象づけることが出来ます。


もう一度、第8話の入須と里志の会話を見てみましょう。

里「でも、素人が書いた脚本に、ちゃんと手掛かりが撒かれているんですか?」
入「それなら大丈夫。あの子はミステリーの勉強をきちんとしていた。十戒も九命題も二十則も守っていたはずよ」

この部分は原作では以下のように記述されています。

里「でも探偵小説初心者が書いた脚本に、ちゃんと手がかりが撒かれているのかな。最後に意外な真実が、だけじゃあ困る」
入「その点も大丈夫。あの子は神経を使いすぎるぐらい使ってあの脚本を書いていたわ。『ミステリの勉強』をしてね。十戒も九命題も二十則も、守ったはずよ」
(角川文庫『愚者のエンドロール』P.56)

その言葉を聞いて里志はこう言います。

里「(中略)その本郷さんがそういうものを守ったのなら、フェアプレイに疑いはないね」
(同書P.56)

そして入須は、

入「つまり問題は適切に提示されているということ。・・・それを踏まえた上で、『犯人』は誰だと思う?」
(同書P.57)

と結びます(アニメでもほぼ同じ台詞です)。
これは実に巧妙な誘導です。里志の「手がかりは撒かれているのか?」という疑問に対して3つの法則集の名を連ねて"犯人当てのデータは既に書かれている"ことを印象づけただけでなく、最後には入須自らの言葉で「問題は適切に提示されている」と断言するのです。この時点で古典部の4人は誰もが本郷の脚本には謎解きの鍵が全て網羅されていると信じて疑うことはなかったでしょう。


入須の目的は、古典部メンバーを巻き込んで『犯人』を捜させる=本郷の物語のこの先を推理させることにあります。そのためには古典部の4人に、正しく推理できるだけの状況が既に整っていることを信じさせなくてはなりません。犯人捜しに応じられるだけの情報が全て開示されていることを納得させなければなりません*7


即ち「九命題」は、"謎解きの手がかりは全て出揃っている"ことを決定的に印象づけるために用意されたガジェットであって、古典部メンバーに犯人捜しを依頼するために入須が仕掛けた心理的トリックだったのではないか。入須、というよりは作者の米澤穂信さんが、決して一般的とは言えない「九命題」を「十戒」「二十則」と並べてわざわざ取り上げた意図は恐らくそこにあると私は考えます。


かくして入須は、古典部4人の協力を得ることに難なく成功したのです。
女帝おそるべしですね。



以下、ミステリ絡みの雑感を少々。


【雑感その1】
1928年に書かれたノックスの「十戒」もヴァン・ダインの「二十則」も今の時代では少々時代遅れの感があります。事実、その後のミステリが辿った歴史を見れば、「十戒」や「二十則」を遵守した作品の方がむしろ稀で、"掟破り"を犯すからこそ過去に例のない傑作が生まれるのではないかと思ったりもします(単に私の好みの問題かもしれませんが)。


日本だと綾辻行人有栖川有栖法月綸太郎麻耶雄嵩等に代表される新本格派以降の作家には意図的に"掟破り"を連発する傾向が強く、ミステリが多様化して"反則"や"邪道"でさえ立派なトリックのジャンルとして認知されるようになった現代では、もはや「十戒」も「二十則」も古色蒼然と見えてしまうのは致し方ないことでしょう。


そもそも「十戒」の提唱者ノックス自身、自らルールを破った作品を幾つも書き残しているそうで(私は未読)、彼の小説は実はアンチ・ミステリ*8の一種だと評する向きもあるようです。英国人特有のひねくれたセンス・オブ・ユーモアが信条の人らしく、実は「十戒」はノックスが冗談半分で書いたという説まであるので、まったくもって一筋縄ではいきません。


【雑感その2】
以前、私はTwitterで『愚者のエンドロール』はちょっとしたメタ・ミステリの構造を持っていると書いたことがあります(本稿の脚注1でも書いています)。それはホータローが最初に導き出す結論がメタ・ミステリ的であるということもありますが、物語内物語、即ちミステリがミステリを語るという物語の自己言及的構造が極めてメタ的であることを指摘したものでした。


更に言うと、この話は実際の殺人事件の謎を解く訳ではなく、フィクションである未完の映画の結末を推理する訳ですから、事件を推理するように見えて現実には死者も犯人も探偵も実在しません。どこまでいっても架空のものでしかありません。推理を突き詰めようとするその先にあるものは存在しないもの、言い換えれば、脚本を書いた本郷真由の頭の中にあるものを掴み取ることに他なりません。推理の手掛かりとなるものは本郷の書いた脚本、参考にした文献、議事録とメモ書き、ただそれだけです。


そういう意味で、これは事件を推理するドラマではありません。本郷という人物が何を書こうとしたのかを辿る思考実験です。密室も殺人も全ては架空のもので、手元にある情報の中に多少でも誤謬が含まれていれば、たちまち推理は瓦解して根底から崩れてしまいます。ここで「探偵」が捜すのは「犯人」ではありません。「物語」です。『愚者のエンドロール』とは、そういった類の「謎解き」なのです。


また不在の人物の思考の流れを推理するという意味では、その意識内の世界を体現する自主映画の役者達が(入須や江波や沢木口らと同じ2年F組の生徒でありながら)唯の一人として現実の場面に登場しないことはとても象徴的だと思います*9


【雑感その3】
※以下の項は『愚者のエンドロール』の核心部に一部触れていますので、該当箇所は色を消しておきます。読まれる方は自己責任でお願いします。
最後にもうひとこと。
愚者のエンドロール』はミステリに馴染みのない人には少々分かりにくい部分があって、そういった人が、終盤の謎解きのカタルシスを存分に味わえるかどうかは極めて微妙だと思います。ある程度、古典的なミステリを読んだことのある人、つまりシャーロック・ホームズのシリーズを全てでなくてもある程度は読んでいて、かつクリスティやクイーンの代表作を最低でも2、3冊は読んでいるような人でないと、その意味合いにピンと来ない箇所があるからです。


>>ネタばれ ここから
例えばホータローの最初の推理が否定されるくだりは、クリスティの『アクロイド殺し』に代表されるような"作者が読者に仕掛ける"叙述トリックの衝撃を知っていなければ、その本当の面白みや知的興奮を堪能することは難しいでしょう。あるいは脚本の文章を半ば意図的に読み替えてしまうことで、本郷が意図したストーリーとは異なる展開になってしまう様子などは、クイーンの『Yの悲劇』におけるテキストの誤読による犯人の予期せぬ行動を想起させます。これもミステリの語法をある程度知っていなければ、何が面白いのか理解できない可能性があります。
<<ネタばれ ここまで


そういう意味でミステリに明るくない人には若干ハードルの高い作品と言えるでしょう。そういったファン層をも含めて、京都アニメーションがこの物語をどのように料理してみせるのか。そこが今一番の私の関心事です。


蛇足ながら、本稿執筆中の今週、関西では第9話が放映されました(2012/06/19)。同篇は『けいおん!』シリーズの山田尚子監督の絵コンテ・演出回という私のようなファンにとっては二重に美味しい回でした。


(2012/6/24 記)

*1:ただし後述しますが、厳密にはミステリを巡るミステリという意味で"メタ・ミステリ"と言うべきでしょう。

*2:ノックスの十戒」の1つである<中国人を登場せしめてはいけない>(原文”No Chinaman must figure in the story.“)という項目は、一見しただけではひどく唐突な内容です。アニメでは描かれませんでしたが、実は原作『愚者のエンドロール』には、里志が「ノックスの十戒さ。中国人を登場させてはならない、とか、要するに探偵小説におけるルールを謳った文句だよ(同書P.56)」と説明するシーンがあって、それを聞いたホータローが「中国人が出てはいけないって、娯楽ものに中国人が登場すると政治的に何か問題でもあるのだろうか?しかしSFにはよく出てくると思うが・・・・・・。第一フェアプレイとは関係ないだろう(同書P.57)」とその意図を図りかねるという描写があります。現代では意味不明になってしまったこの条文の解釈は、『中国人は神秘的な存在であると誤解されていた』とか『当時の"中国人"という言葉には「呪術や気功を使う不気味な連中」という意味があったので、そのような超常現象を駆使する人物の登場をノックスは禁じたのだ』とする説が一般的です。これに私の解釈を少し加えると、まずもってこれは、帝国主義時代にヨーロッパを覆っていた中国人や日本人に対する人種差別的偏見(=黄禍論)に基づくものであり、かつ1920~30年代のイギリスで大ヒットした小説の主人公「怪人フー・マンチュー」を意識したのだろうというものです。天才的な頭脳を持った悪の権化のような犯罪者フー・マンチューは、東洋に対する得体の知れない不安や脅威を感じていた当時の欧米の人々の心理を具現化したかのようなアンチ・ヒーローですが、肝心の小説の出来栄えは今ひとつで、論理的な謎解き要素のほとんどない<無理が通れば道理が引っ込む>的な冒険活劇でした。恐らくノックスは、ミステリの論理的な謎解きを台無しにしてしまうようなフー・マンチュー御大のごとき人物の登場はご免蒙るという意味合いを込めて、半分はジョーク、残り半分は未知の人種に対する多少の偏見を交えて項目に加えたのではないでしょうか。本稿の【雑感その1】では"「十戒」はノックスが冗談半分で書いたという説がある"という見解を紹介していますが、この条文にはノックスのジョークのセンスが見え隠れしているようで興味が尽きません。

*3:先に本文で述べた通り、ミステリは第一次世界大戦第二次世界大戦との間に英国と米国で黄金期を迎えています。2つの大戦の狭間の時期に英米で花開いた時代の仇花のような遊戯文学。<近代>の到来と共にこの世に生を受けたミステリは、第一次世界大戦における大量殺戮という<二〇世紀的な死>を通過した後に全面開花するに至った訳ですが、その背景には戦争という不条理で無意味な大量死の衝撃と記憶が色濃く投影されており、「ミステリにおいてなぜ人は殺されるのか?」「なぜ謎は解かれなければならないのか?」という作品構造の本質的な特性もこの視点から読み解くことが可能です。この辺りについては、自らもミステリ作家である笠井潔の論考『探偵小説論』がとりわけ刺激的です。

*4:ヴァン・ダインの作品は本編の謎解きには無関係な衒学趣味が特徴で、坂口安吾がその作風を忌み嫌ってぼろくそにけなしていたのは有名な話ですが、謎解き小説としてのレベルはクリスティやクイーンに次ぐものと認めて高く評価していました。

*5:Who done it?の他には、How done it?(ハウダニット=どうやって殺したのか?)、Why done it?(ホワイダニット=なぜ殺したのか?)などがあります。

*6:「二十則」の13番と「九命題」の7番を一応繋がりありと判定しましたが、これはかなりの加点配分です。

*7:これは言い換えれば、本郷の脚本の出来/不出来や、「十戒」や「二十則」に準拠しているか/いないかなどは、もはや論点の中心にはなく、古典部の4人の助力を得られるのであれば、たとえ脚本が未熟で推理を巡らすには値しないレベルの内容であったとしても、既にそれ自体は重要ではないという方向に論点がずらされていることを意味します。これは『愚者のエンドロール』という作品自体を論じる上で極めて重要なポイントなのですが、本稿ではそこまで踏み込みません。

*8:反ミステリとも書きますが、一般には「ミステリの形態を取りながらミステリであることを自ら拒む小説」を指します。いわゆるメタ・ミステリや、場合によってはアンフェアなトリックを弄した小説をも含むことが多く、明確な定義は難しいところです。ちなみに日本におけるアンチ・ミステリの代表作は、夢野久作『ドグラ・マグラ』小栗虫太郎『黒死館殺人事件』中井英夫『虚無への供物』などで、これらは三大奇書とも呼ばれ、日本ミステリ界の黒い水脈として今なお強烈な影響力を誇っています。

*9:本稿執筆後に放映された『愚者のエンドロール』篇の最終話では、あろうことか上映を観に来ていた海藤をホータローが発見するという原作にはないシーンが追加されていました。これにはかなりの違和感を覚えたのですが、結末で入須と対峙するホータローの取った態度が原作とは全く逆のアプローチであったことも含めて、これらはアニメ制作側=武本監督の作品解釈だと理解するより他ないでしょう。