【小論】『たまこまーけっと』:中心の不在、または後景化する主人公

以下は第8話視聴後、現時点での『たまこまーけっと』の雑感をまとめた小文です。


元々はTwitterで呟くつもりで文章を書き始めたものの、考えをまとめていく内にボリュームが膨らんでしまったので、まとめなおしてこちらへ記載することにしました。全体的に細切れの文体なのも、「です・ます」調ではなく「だ・である」調なのも、いずれもTwitter投稿向けに文案を練っていた時の名残りです。


たまこまーけっと』はまだ最終話を迎えていませんし、物語の最後まで見届けてから作品としての評価をしたいという思いは文章の最後に書いた通りで今も変わりませんが、ひとまず現時点で感じていることをつらつらと書き並べてみました。テーマ別に論じている訳ではないので首尾一貫していませんし、結論を導き出している訳でもありません。今感じているある種の戸惑いや期待を率直に記したものです。その分、同じような内容を繰り返し述べている冗長な箇所もあります。あえて最初に脱稿した時のまま文章には手を加えないことにしました。


 
たまこまーけっと』第8話が終わった。年末に始まる1年間を描くこの物語の季節は既に秋を迎え、物語も折り返し地点を越えている。しかし不思議なことに主人公のたまこ自身に変化が起こらない。どこか天然ボケのようでいて、それでいて悠揚としたたまこの存在感は不動のものと言えるし、周囲がどれだけ浮き足立とうと常に無風状態のようにマイペースで微動だにしない。いや、はっきり言えば彼女の"気持ちの揺れ"が見えない。


それゆえ、主人公でありながら何を考えているのか掴みづらく、観る者にとって感情移入しにくい人物として描かれていると言ってもいい。たまこのモノローグもないため*1、どこか超然として、共感することが難しい。いったいこれは何なのだろう。主人公がそこにいるというのに、いるという確かな実感を持ちえず、茫漠と遠くにいるように感じられるのはなぜだろう。

第2話より。たまこは恋愛感情にひどく鈍い人物として描かれているが、物語の最後までこのままなのだろうか。


ひとつ言えるのは、たまこの存在は、周囲の人々の言動や感情というフィルターを通さないと、その姿が明確になるように描かれていないということである。たまこの奇妙な不在感は恐らくそこに起因する。主人公が一番掴みどころがなく遠い存在に見える不思議な感覚。だからこれは「たまこの物語」ではなく、「たまこを巡る物語」と言うべきなのかもしれない。


物語を成立させる大きな要件とも言える、物語を牽引していく動的な力学が「たまこ」という主人公には(今のところ)備わっているようには見えない。ここで言う力学とは、たまこが自ら主導権を握って周囲を引っ張っていくという物語上の見た目の動きを意味するものではない。そうではなく、物語を内部から支えるある種の緊張状態のことであって、その内的に張り詰めた感覚は主に観る者がキャラクターや世界観へ共感を寄せることによって得られるものである。


それは観る者の視線を誘導するチャームポイントとなりえるものであるが、表層的な関心というだけにとどまらず、もっと深層のレベルで観る者の情動を励起し、時に激しく掻き立てるものでなければならない。観る者の感情を否応なく振り回すほどの思い入れやシンパシーを託すに足る登場人物の存在や世界観なくして「物語」は「物語」足りえない。その要素の欠如した「物語」は観る者の参入を拒み、場合によっては内的な緊張を維持できず求心力を失って崩壊しかねない。


たまこまーけっと』がたまこの存在の稀薄さゆえに崩壊するかもしれないなどと言っている訳ではない。むしろ受け手である私達が感じるこの妙な感覚は、「たまこ」というキャラクターの性格造形がどうこうというのではなく、作品構造に関わるもっと本質的な部分に触れる話なのではないか。


ドーナツの穴がそれ自体では"穴"として存在しえないように、たまこの人物像は彼女を取り巻く周縁部によって形作られている。彼女の存在は他者に認識されることによって初めてその輪郭が明瞭になる。たまこの姿はしばしば他者の主観の中で捉えられており、この世界の中心は静かな不在感に満ちている。主人公の存在感は陥没し、後景化している*2。そのため、観る者は主人公よりも時に魅力的なサブキャラを介して、いわば迂回路を辿って作品世界に参入するしかない。


見ようによれば、たまこの人物描写は、ある厳格なルールの下で制約を受けているように感じられなくもない。アニメ的な記号で固められたテンプレート的主人公像を回避して、他者の視線の上で結像する人物を描き出そうという、ある意味アクロバティックな作劇に腐心しているようにも見える。意図的に仕組まれた中心の不在感とでも言えばいいのだろうか。奇妙な作品構造だと思う。キャラクタービジネスを展開する上で致命的と言っても良い要素かもしれない。これが単純で分かりやすいキャラクター設定をしない作り手の拘りの表れなのか、単なる演出面での不調を意味するのか、私には判断がつかない。


山田尚子監督はネガティヴな要素がなくても物語は作れるとインタビューで語っている。しかし影のないところに光が存在しえないように、陰影を欠いた物語はのっぺりと単調な世界しか描き出せない。ネガティヴな感情と心の陰影とは違う。前者は忌むべきものであっても、後者は人生の彩りのひとつだ。事実、『たまこまーけっと』が心を打つのは、自らの心の揺れに戸惑う2話のみどりの視線のゆらぎであり、3話の健気な史織の表情であり、7話の清水屋の店主やうさ湯の主人の背中であり、枕元を涙で濡らすチョイの横顔である。

左からみどり、史織、チョイ。心に想いを秘めたそれぞれの表情。


そうした人の心の機微が描かれる時こそ、この作品が俄然精彩を帯びる瞬間であり、そこに山田尚子監督の真骨頂がある。それは心の陰影というよりも、「星とピエロ」のマスターの言葉を借りれば、"名前のつけられない想い"というべき未分化の感情であるのかもしれない。それを描き出せるのは言葉ではなく映像表現だけだろう。そうした様々な人々の心の揺れを描くための演出装置として"後景化した主人公像"が要請されたのだろうか。その辺りがまだ私には分からない*3


また山田監督はこの作品では「ラブにこだわりたい」と語っていた。「人が誰かを想う心の在り方を描きたい」と。しかし現状は肝心の主人公がラブから最も遠い人物として描かれている。"Everybody Loves Somebody"がこの作品の主要テーマであるなら、主人公がそこに踏み込まないまま終わるというのは明らかに片手落ちである。或いは、そのように見えてしまうここまでの演出はやはり作為というか意図的な何かなのか。今からたまこの心情に大きな変化が起きるのか。しかし既に残り話数は少ない。強引なハード・ランディングの可能性もある。期待と不安がないまぜになった心境であるが、ここまで来たら今後の展開を括目して待つしかない*4


そういう訳で自分はこの作品の評価を今も保留にしている。作品の構造上、どこか歪なものを感じていて、通常のアニメの価値基準では語れないような気がする。それもまた作り手の狙いのひとつであるとするならば、それを見出すためには最後までじっくり付き合ってみるしかない。過剰な期待や予断を交えず虚心坦懐に受け止めてみたい。私自身にとって重要なのはこの作品を山田尚子監督のフィルモグラフィーの中でどう位置付けるかという作業であって、そこから何を読み取ることができるかを明らかにすることである。テーマ批評的な観点でどこまで捉えきれるか。その欲求と好奇の思いが今、私の中にある。

第3話より。史織への想いを何よりも雄弁に物語るたまこの表情。秀逸な描写。


(2013/3/3 記)

*1:モノローグ(=ここでは登場人物の心の独白を指す。発話する独り言とは違う)を描かないということは、登場人物の内面を台詞で代弁させるという安直な手法を取らず、現実に見聞きできる客観的な事象だけを写実することを意味する。そこでは主人公の「観る者に思考の中身まで伝えてしまうという」特権性は剥奪され、観る者と劇中の人物との視点は等価になる。これは山田監督作品における一つの特徴であると考えるが、とりわけ『たまこまーけっと』ではその傾向が顕著で、第8話まででモノローグを語る「話者」は、アバンやラストで名調子を語るデラを除けば、たまこのみならず登場人物の誰一人いないのだ(第1話Bパートの「今年こそ渡さないとなぁ、誕生日プレゼント・・・」のもち蔵の台詞のみ微妙)。これはこの作品を考察する上で決して看過してはならない要素であり、山田監督の作品を論じるという意味では『けいおん!』との比較も必要であろう。

*2:この点については、母のいない北白川家で、たまこが一家の母親の役割を務めている点に注意が必要と思われる。この作品における母性的な側面は、「母」としてのたまこと、母性の具象化ともいえる商店街との二重構造になっている。たまこは母としての役割を体現しながら、なおかつ商店街という母性の内部に包摂されている。たまこの母性は本来異物である筈のデラもチョイも造作なく同化し吸収してしまうが、同様に商店街もまたマクロレベルでの強力な母性の装置として機能し、たまこをも呑み込んでいる。たまこが後景化する理由のひとつに商店街の存在があるというのは考え過ぎだろうか。

*3:たまこも母親の不在という喪失感を抱えているはずで、もう少し複雑な感情の吐露があっても良いのだが、(第8話時点では)たまこ自身が表立ってそれを語ることはない。そもそも、たまこの母親の不在理由ははっきりとは語られていない。第1話でたまこが語り出そうとした瞬間に早飲み込みしたデラが止めてしまったから、生きているのかそうでないのかも本当のところは分からないのだ。【追記2013/3/4】こちらの山田監督へのインタビュー記事(http://hobby-channel.net/tsuboani/378-tsuboani/25382-25382.html )で、たまこの母は亡くなっている旨の発言がありましたので、上述の見解は削除します。

*4:結局、この想いはTVシリーズ『たまこまーけっと』では叶うことなく不完全燃焼気味で終わってしまったのですが、後に「この想い」だけを抽出して純度100%の「たまこのラブ」を描き切った作品によって筆者の想いは完全に報われることになります。そう、映画『たまこラブストーリー』です(2014/6/13 追記)。