【音楽】グルーヴする聴覚のモダンアート:Remain in Light/TALKING HEADS(1980)

先日の「ラジオパラノイア」を聞いて以来、TALKING HEADSの傑作アルバム"Remain in Light"を憑かれたように聴いている。

リメイン・イン・ライト<紙ジャケットSHM-CD>

リメイン・イン・ライト<紙ジャケットSHM-CD>

このアルバムが発表されたのは1980年という様々な意味において時代の節目となる年だった。当時、Rockは激しい自己変革の只中にいた。


70年代半ばに登場したPunk Rockは、旧来の商業主義的Rockを仮想敵と見做し、そこに激しく”No”の一言を突きつけた。当時のRockは、60年代のイノベイティヴな時期を通り過ぎ、娯楽産業として肥大化しつつあった頃で、アーティストもまた、ルーチンとしてのレコード制作とツアーとの絶え間ないサイクルの中で疲弊と倦怠に見舞われ、どこか閉塞感を強めていた。煮詰まって身動きの悪くなっていたRockは、Punkの登場により否応なく自らの存在意義を問い直されることになる。それは、さながら1910年代に勃興したダダイズムの芸術運動の如く、激しい揺り戻しの運動性を伴って音楽シーン全体をダイナミックに攪拌した。*1


そこで乱暴に撒き散らされた種子は、やがて既成の価値観に捉われない新たな音楽を産み出す萌芽となる。後にNewWaveと呼称される一群の音楽は、Punkの播いた「なんでもあり」の精神を拡張し、絢爛たる大輪の華の数々をポピュラー音楽界に咲かせることになる。その勢いは、殆ど死に体であったRockの世代交代と価値観の刷新を促し、状況を再び活性化させ、やがて60年代末の再来と称された第二次ブリティッシュ・インベイジョンという動きを生む。MTVの登場がそれを更に後押しした。1980年代初頭のことだ。


Punk/NewWaveのミュージシャンは、旧世代のRockが培ってきた音楽表現を退け、全く新しい音を自らの手で鳴らすことを渇望した。そこで選択された方法論のひとつが「第三世界」の音楽への傾倒、即ち、白人至上主義とも言える英米のRockがこれまで追いやってきた黒い血の記憶を呼び起こし、そこに新たな活路を見出そうとするものだった*2。今で言うワールド・ミュージックの音楽要素を貪欲に吸収することで、自らの音楽に野生のベクトルを獲得しようと試みる。それは窒息寸前の西欧文明の行き詰まり感の打破、閉塞感からの解放を願っての必死の回復運動だったと言えるだろう*3


"Remain in Light"は、そんな時代背景の元に生まれた。


同作は80年代初期のニューウェイヴ・シーンを代表する1枚として確固たる評価を得た傑作であり、今聴いてもその衝撃性は一向に衰えていない。ここで展開されるアフリカ音楽へのアプローチは、音楽に原初的なエナジーを回復させるためのカンフル剤のようなものだった。同時代的には、PETER GABRIELの3rd(とりわけ終曲の"Biko")と4thアルバム、及びWOMAD*4への活動の展開。或いは元SEX PISTOLSJOHN LYDON率いるP.I.LやTHE POP GROUPTHE SLITS、23 SKIDOO等が大胆に導入したエスニックで野蛮なリズム。よりポピュラーなヒットチャート・シーンにおいては、BOW WOW WOWやADAM & THE ANTSのジャングル・ビートなどとも共振している。鍵を握るのは”リズム”である。


フェラ・クティに代表される主に西アフリカの音楽特有の延々とワン・コードだけで演奏し続けるスタイルは、最初から最後までいわば「いきっぱなし」のプラトー状態と言えるもので、この高揚感は一度ハマると病みつきになる。私自身、アフリカのミュージシャンにはかなり夢中になった時期があって、フェラ・クティサリフ・ケイタ、トーマス・マプフーモ、マヌ・ディバンゴ、キング・サニー・アデ、ユッスー・ンドゥールなどのミュージシャンの音楽は今でも愛聴している。アフリカ音楽のリズムの多彩さは舌を巻くばかりで、その多様なリズムの解釈が当時の西洋のミュージシャンに与えた影響は計り知れないものだった。


"Remain in Light"について流布されている大きな誤解のひとつに、このアルバムはアフリカの音楽家をスタジオに連れてきて演奏させたというものがあるが、それは間違いである。少なくともライナーノーツのクレジットを見れば(クレジットを100%信じるならの話だが)、バンドメンバーの4人にプロデューサーであるBRIAN ENOを含めた5人が様々な楽器を交換しつつ演奏しており、ゲスト参加はギターのADRIAN BREW(ex.FRANK ZAPPAKING CRIMSON)、前衛トランペッターのJOHN HASSELL、バッキング・ボーカルにNONA HENDRIX。あとパーカッションでもう一人いる程度だ。


また"Remain in Light"はその後に発表された(制作時期は"Remain"の前であった)BRIAN ENODAVID BYRNE*5の共作アルバム"My Life in the Bush of Ghosts"の姉妹アルバムと評されることが多い*6

My Life in the Bush of Ghosts

My Life in the Bush of Ghosts

集団のグルーヴが基調である(即ちバンドサウンドの体を成している)"Remain"と比較すると、"Bush"は後のサンプリング・ミュージックを彷彿とさせるコラージュ音楽としての色彩が強く、実験性の高さゆえに"Remain"ほどのポピュラリティーはなく、聴く人を選ぶような前衛性に満ちている。


ただし制作時期やその背景を考慮すると、実はこの2枚のアルバムは1枚のコインの裏表のような関係にあることが分かる。"Bush"で大量に使用されたコラージュ音源(コーランや悪魔払いの呪文、短波放送等)は第三世界への傾倒を露わにするものであるし、アルバムタイトルはアフリカの作家エイモス・チュツオーラ(Amos Tutuola)の同名小説からの借用である。この作品のコンセプトを更に発展させ、よりグルーヴィーでハーモニックなバンド・サウンドとして具現化・血肉化した成果がアルバム"Remain in Light"だった。


アルバムは発表直後から、賛否両論の論議を批評家の間に巻き起こした。日本でも当時、"Remain"は帝国主義的文化搾取であると、その音楽性よりむしろ第三世界の音楽を西欧文化圏のミュージシャンが取り込む手法について激しく槍玉に挙げられたことがある。批判の尖峰に立ったのは、ロッキン・オン誌の渋谷陽一氏で、対する擁護派は中村とうよう氏を筆頭とするミュージック・マガジン誌だったと記憶している。


この誌上論争の決着がついたか否かは知らない。30年も前のことなので、今となっては過去の話題である。HIP HOPやサンプリングが音楽の主流になり、剽窃とオマージュと搾取とリスペクトとの境界線が曖昧になってしまった90年代以降の展開を考えると、この当時の論争はどこか牧歌的でさえある。今、当時の議論を読み返す気はない。ただ音楽だけが残った。それを聴いてどう感じるか、それで十分だ。


"Remain in Light"は今から31年も前のアルバムだが、全く古びていないということは先にも述べた。今回10年振りくらいに聴き直して改めてそのことを確信した。こうしたニューウェイヴ全盛期のサウンドは、当時の流行の音がふんだんに盛り込まれていたりすると、逆に時代の経過と共に劣化していく運命を背負うものだが、不思議とこのアルバムはそうした”時の風化”を受けていない。どこか超然としている。


アフロ・ビートのパーカッシヴなリズムと、波のように寄せては返すグルーヴィなうねり。そこにザクザクと聴覚を刺激する小気味良いギターのカッティングと電子的なノイズが混入する。さながら近未来のアフリカの沃野に降り注ぐパルス信号のようだ。その音作りはモダン・アートを見るような先鋭的な感覚に満ちている。「原始と原子の火花散る出会い」とは、故今野雄二氏の名コピーだが、まさに言い得て妙だと思う*7


このアルバムの発表後、彼らは若干のインターバルを置いて発表された次作"Speaking in Tongues"のツアー・ステージを収録するために、ジョナサン・デミを招いてライブ映画「ストップ・メイキング・センス "Stop Making Sense"」を制作する*8。ライブ映画の頂点と評されるこの傑作の発表によって、バンドは活動の絶頂期を迎えることになる。

ストップ・メイキング・センス [DVD]

ストップ・メイキング・センス [DVD]

色褪せることのない永遠のアヴァンギャルド − "My Life in the Bush of Ghosts"
グルーヴする聴覚のモダンアート − "Remain in Light"


共に時代を超越した傑作である。


(2011/06/23 記)

*1:チューリッヒ・ダダの活動拠点の名前をそのまま借用した「キャバレー・ヴォルテール」というバンドもいた。

*2:初期のPunkがReggae/Dubと親和性が高かった事実を思い起こすこと。BOB MARLEYの名曲"Punky Reggae Party"は、ReggaeサイドからPunk/NewWaveシーンへ共闘を呼びかけたアンセムである。

*3:アイルランドの移民を経由してカナダ/北米経由で南下したトラッドと、アフリカ大陸から渡って来た奴隷の末裔が受け継いで北上を続けた黒人音楽とが、北米大陸の中心でコンフューズした結果、産み落とされたのがRockである。従ってこれは、Rockにとって自身の体内の血が求めた先祖帰りの現象であったのかもしれない。

*4:"World Of Music, Arts and Dance"の略称。1982年にPETER GABRIELが発起人となって企画され、以後、毎年世界各地で開催されているワールド・ミュージックのフェスティバル

*5:デヴィッド・バーンTALKING HEADSのヴォーカル担当でフロント・マン

*6:更に言えば、1981年に発表されたDAVID BYRNEのソロアルバム"The Catherine Wheel"を含めて3部作と見倣すことも出来るだろう。とりわけこのアルバムは夭折したドラマー、ヨギ・ホートン(Yogi Horton)の強靭なバネと鋼の鋭さとを合わせ持ったファンキーなプレイを存分に堪能できるアルバムという点でも特筆しておきたい。なお日本のミュージシャンでホートンの実力に惚れ込んでいたミュージシャンに角松敏生がいる。彼はホートンの死後、追悼盤を出してその死を悼んでいる。

Catherine Wheel

Catherine Wheel

*7:今野雄二氏は、トーキング・ヘッズロキシー・ミュージックの熱烈なシンパとして知られ、彼らの国内盤LPの解説文も多く手掛けられていた。なお今野雄二風に書くなら、トーキング・ヘッであり、ロシー・ミュージックでなければならない。

*8:この後、ジョナサン・デミは映画「羊たちの沈黙」を監督し、一躍名を上げることになる。