【小論】映画『たまこラブストーリー』公開によせて ~フィルムと糸電話、時間と空間をつなぐもの

映画『たまこラブストーリー』公開まであと1日となりました。

京都文化博物館でのTVシリーズおさらい上映会&スタッフ・トークも盛況のうちに終了し、明日4/26(土)が来るのを心待ちにしている今の時点で、TVシリーズ『たまこまーけっと』と映画『たまこラブストーリー』公開によせて思うところを少し書き残しておこうと思います。


もっとも未見の映画に対して身勝手な願望をあれこれ述べたところで詮無いことは承知していますので、あくまで現状の自分の頭の整理のため、思考の断片を書き留めておいて、映画鑑賞後の道しるべにしようという趣旨です。結論はありません。論旨のまとまりもありません。つれづれに浮かんでは消える思考のあぶくをスケッチしたエッセイのようなものだとご理解いただければと思います。ご興味があればご笑覧ください。


以下の文中では「です・ます」調は使わず、「だ・である」調で統一していますが、これは元のメモをそのまま転記しているためです。


■商店街の隠喩としてのたまこ、母性、恋愛
TVシリーズ『たまこまーけっと』は、"Everybody Loves Somebody"のテーマのもと、個性豊かなキャラクター達の様々な"LOVE"を巡るドラマが展開されたが、おさらい上映会のトークでも山田監督が言及されていた通り、主人公たまこ自身の恋愛が描かれることはなかったし、シリーズ制作時にそのような構想もなかったという(その代わり、恋愛が成就した姿を描いておきたいという想いからED映像が作られたとのこと。詳細は先のリンク先のスタッフ・トークを参照)。


以前の拙稿でも述べたことだが、主人公たまこは物語の世界の中心にいながらにしてその存在感は非常に希薄である。これは、たまこが自身の内側から湧き起こる情動(エモーション)に突き動かされて物語全体をダイナミックにリードしていくキャラクターではないということと無縁ではない。彼女は各話のエピソードでスポットライトを浴びる個々のキャラクターに寄り添ってはいるが、あたかも黒子のような役割に徹しており、そこではたまこは自ら"語る"よりは"語られる"存在となっている。主人公が自律的に物語を駆動する装置たりえないという意味において、彼女は殆ど不動の非-存在といってもいい。台風の目のような、ドーナツの穴のような、周縁の存在なくして中心が結像しないような、そのような存在。


エゴの希薄な(もしくはそのように抑制することを自分に言い聞かせて育ってきた)たまこの存在は、すべてを許容する心優しい母性空間である「うさぎ山商店街」の生きた象徴、もしくは隠喩と言いかえることもできるだろう。更に言うなら、たまこは商店街という共同体内部における北白川家の生活を支えるもうひとつの母性でもある。たまこの存在は、いわば二重化された母性として機能している。たまこが恋愛感情に最も疎い人物として描かれているのも、彼女の存在自体がうさぎ山商店街の隠喩であり、また周囲の人達の愛情という温かな繭の中で外部(=他者)の存在を強く意識することなく育ってきた母性の体現者であるという仮定に立てば充分に頷ける。


そもそも異性(=他者)に恋愛感情を持つということは、否応なく自-他の区別、彼-我の境界を意識することである。自分の中に湧き起こる異性への熱い想いと、必ずしも自分の思いのままにはならない"他者"である相手へのやるせない想いとの相克。そこで人は初めて自分と相手とが互いに異なる存在であることを理解し、どうにもならない現実を受容し、時に悲嘆に暮れ、やがて一個の人間として独立し成長していく。恋愛は母性的な温もりの中から明確な自我を持った人間としての離脱と自立(自律)を促す。


母性の塊のような商店街という舞台装置において、たまこが恋愛感情を抱くことは、それまでの彼女のアイデンティティに揺らぎをもたらすと同時に、(ある意味で)商店街そのものを主役に据えたTVシリーズの作品構造にも揺らぎを与えることになる。ゆえにTVシリーズでたまこの恋愛が描かれることはなかった。TVシリーズの最終話でたまこが商店街に居留まることを決意したのは必然だったのだ。


たまこがそのように透明な象徴的存在として不在化された中心を担う以上、たまこを軸として物語を進めるのは難しい。たまこは物語のフレームワークそのものであり、それ自体が活発に動き回ることは出来ない。そのようなスタテッィクな位置付けの人物が、物語をダイナミックに牽引することは困難である。従って物語の内部で状況に変化を与えるために、物語を駆動する装置としての役割を担う存在が要請される。それが外部からの闖入者=デラである。


■デラ、「星とピエロ」、空間と時間を体現するもの
TVシリーズ『たまこまーけっと』の中で登場人物がモノローグを語る場面がないという事実先の拙稿で指摘しておいた(同じ山田尚子監督作品の『けいおん!』シリーズと比較すれば、その徹底ぶりは際立っている)が、唯一の例外がデラである。彼だけが各話の最後に名調子のモノローグでお話を締め括ってみせる。これは彼が商店街ではない外部からやってきた本質的な意味での異人=他者であり、商店街を外部から眺める視点を有していること、かつ物語を直接的に推進するトリガーという役割を与えられた特権的立場にいることの証である。


そしてデラは、その身体に仕込まれた映像装置を通して商店街と南の島をつなぐことが出来る。
こうしたデラの役割は、遠く離れた別々の場所をつなぎ合わせる「空間的な連続性」を体現するものと言えるだろう。商店街もしくはその周辺で通信する時、デラはいつも意識を失うが、それは彼の自意識を介することなく、一切の夾雑物を交えずに両方の場所がシームレスに接合されている状態であることを示している(壊れていることの方が多いが)。


そして同じような視点で着目しておくべきもうひとつの存在が、レコード&喫茶店「星とピエロ」である。
日常の喧騒と時間の流れの外にあるような「星とピエロ」は、悩みを抱えた人達が束の間立ち寄って、そこで何かを得て恢復していく場として機能している。人が束の間居留まって心を恢復していく「場」とは神話的な空間に他ならない。ここは商店街の中の異空間であって、ある種の聖域である(だから地元の祭りの日は閑散としている)。そこで使われる重要なアイテムが音楽であるというのは興味深い。古来音楽は呪術であり魂の医療行為であったからだ。


「星とピエロ」は、音楽という"時間の芸術"を小道具に、過去と今をつなぐ存在として「時間的な連続性」を体現している。個々のエピソードで楔のような役割を果たすマスターのLPレコードは、さながら呪術のアイテムである。そもそもマスターの八百比邦夫(やおび・くにお)という名前は、八百比丘尼(やおびくに)の伝説に由来するものであって、彼が時間を超越した象徴的存在として据えられていることは初めから明白なのだ。


「星とピエロ」のマスターは商店街の過去から現在までの歴史を記録(レコード)し、それを訪れた者に告げる賢者という縦軸の存在。デラは今ここで商店街と南の島をつなぐ遍在的(通信機能)で、かつ空間のダイナミズムを体現する横軸の存在。デラが商店街や学校を自在に行き来し、他者への働きかけを通じて、物語をダイナミックに駆動させるエンジンとして機能するなら、「星とピエロ」は個人の内面において過去との絆やアイデンティティの連続性を恢復させる場所である。


余談ではあるが、「星とピエロ」の店名は中原中也の詩に由来する。原詩は青空文庫でも読める。シニカルな口調の老いたピエロが、夜空の星など空に吊るした銀紙に過ぎない、銀河系も大宇宙の神秘もあんなものはニセモノのまがいものだと嘯く。「星とピエロ」のマスターとはずいぶん趣きが違うが、しかしその口調の端々に夜空や宇宙への恐れや不安が滲み出ていることが次第に分かってくる。恐らくはこのピエロもまた、『たまこまーけっと』第11話で無限に広がる星空を見上げて「宇宙の入口に立っているみたいだ」と、自分達の前に突如として現れた茫漠とした未来に不安を吐露したかんなやみどりや史織と同じ立ち位置にいるのだろう。


■宇宙、青い鳥、デラの不在
たまことデラ。この両者が揃うことで『たまこまーけっと』は全12話の物語を生み出すエンジンを獲得しえた。しかし映画『たまこラブストーリー』は、たまこ自身の恋愛を描く作品であることが既に明言されており、本編にデラが登場しないらしいことも分かっている。今度はたまこ自身、それも恋愛が物語の主軸に据えられるのだ。


恋愛(或いは初恋)は、母子一体の多幸感に浸っていられた幼少期を脱し、外の世界を受け入れるための心の通過儀礼である。それは他者を理解し、受容し、翻って自己を見出す契機となる。自分ではどうにもならない世界の不条理と道理を知るのも恋愛。一歩踏み出せば、そこには歓喜と絶望の双方がともに待ち受けている。


第11話で外の世界へ向ける思いの隠喩として「夜の星空=宇宙」がクローズアップされていたことをあらためて思い出してみよう。宇宙の縁に立ち、その深淵を覗きこむ時、そこには無限に広がる未来と可能性、一方で限りない不安と心細さと恐れ、そして希望がある。外の世界の果てしない広さと深さに恐れ慄き、寄る辺ない不安を前に震えるような思いに身を苛まれても、そこから先は自分の足で踏み出していかなければならない。ひりつくような外の世界の空気に我と我が身を晒しながら歩いていかなければならない。変化を受け入れ、外の世界へと自分を開いていくこと。それが大人になるということなのだ。


その逆の意味合いを持つのが「青い鳥」である。TVシリーズ全話の随所に青い鳥が描かれていることにご注意いただきたい。幸せの青い鳥は身近なところにいるというメタファー。商店街の中に青い鳥、外の世界には星空と宇宙。


TVシリーズではもち蔵からのアプローチに微塵も気付かないたまこではあったが、映画の予告編で既に明白なように、もち蔵からはっきりと「言葉」として想いを伝えられ、そこで初めてもち蔵の想いを知る。そこからたまこの内面に変化が訪れる(予告編に見る物思いに沈むたまこの表情はTVシリーズでは殆どなかったものだ)。この告白シーンは恐らく物語の早い段階で描かれるだろう。


思わせぶりな仄めかしなどではなく「言葉」で想いを伝えることは重要である。そこで人ははっきりと形を成した他人の想いを知ることができる。想っているだけでは何も伝わらない。仄めかしだけでは他人に影響を与えることなどできない。相手の心を決定的に動かすのは、いつも明確な「言葉」だけなのだ。もち蔵は勇気をもって一歩踏み出した。恋愛感情に鈍感だったたまこは、ここで初めてもち蔵の想いをはっきりと目の当たりにし、言葉として形として受け止める。そこから変化が訪れる。もう後戻りはできない。前のままの二人には戻れない。


恐らくたまこは、生まれて初めて経験する激しい恋情の波濤に押し出されるようにして、商店街の外の世界=現実と否応なく向き合うことになるのだろう。たまこはたまこ自身の足で勇気を奮って外の世界へと歩み出そうとする。これで映画にデラが登場しない理由も自ずと明らかになってきた。デラの不在は、たまこの自我の目覚めを意味し、たまこ自身が物語を駆動する存在へと変化することを示している。TVシリーズで物語を推進する役割を担ったデラがいなくても、今度はたまこ自身が物語を紡ぎ出すのだ。


それは同時にTVシリーズ『たまこまーけっと』から映画『たまこラブストーリー』への作品構造の本質的な変容を意味する。この一点だけで映画がTVシリーズとは異なる性質の作品になるだろうと、かなりの確信をもって言えるような気がしている。恐らくたまこの女性としての自我の目覚めと心の葛藤と成長が物語の主軸となるだろう。主役となるのは「まーけっと」ではなく、あくまでたまこ個人の「ラブストーリー」。そしてそれは同時に、たまこの商店街からの(物理的、もしくは心理的な)巣立ちをも意味するように思えてならないのだが、果たしてどうだろうか。


■つながりあい、渡される想い
デラの映像装置は"空間"をつなぐものであり、「星とピエロ」の店内およびマスターの掛けるレコードは"時間"をつなぐアイテムであることは先に述べた。映画ではそれが、たまこともち蔵の糸電話、もち蔵の撮った映像のフィルム*1という形で再現される。


映画けいおん!』では"カメラ"と"歌"が、記録と記憶を次代へと伝承してゆくための象徴的なアイテムとして登場したように、たまこラブストーリー』では"糸電話"と"フィルム"が、TVシリーズの"デラ"と"星とピエロ"に照応するように「空間」と「時間」をつなぎ合わせるアイテムとしてリフレインされるのではないだろうか。


デラの存在は「空間」を"映像"でつなぐもの*2
「星とピエロ」のマスターの掛けるレコードは「時間」を"音"でつなぐもの。

糸電話は「空間」を"音"でつなぐもの。
フィルムは「時間」を"映像"でつなぐもの。*3


TVシリーズ『たまこまーけっと』に既に描かれていたように、人の想いは時間と空間を越えてつながり合っていく。たとえ遠く離れていても結んだ心の絆を確かめ合うことはできる。映画『たまこラブストーリー』もまた「つなぐ」ことが大きなテーマとなって、たまこともち蔵の恋の行方をしっかりと支えているのではないだろうか。「つなぐ」の他にも「伝える」「渡す」「受け止める」なども同様のキーワードと考えられる。TVシリーズでは、もち蔵が投げた糸電話をいつも受け損ねていたたまこが、映画ではそれをしっかりとキャッチする姿を見てみたいと思うのだ。


(2014/4/25 記)

*1:キー・ビジュアルのもち蔵はビデオカメラを構えているので、アナログな「フィルム」という表現は妥当ではないかもしれません。ここでは彼の撮った「映像」全般という意味合いでご理解下さい。ただし予告編の中にはフィルムのコマと思われる映像が数カット入っており、スタッフトークでも竹田さんから「OPで映画のフィルムのコマが映る」という発言があるので、映画の「フィルム」が重要なモチーフとして登場するのは間違いないと思っています。

*2:第2話や第9話のようなビデオ再生装置となった時は、「時間」を映像でつなぐ存在になっていますね。

*3:もち蔵の部屋の窓際には、恐らく劇中に実在すると思わしき「PARIS LOVE STORY」という文字の入った映画のポスターが架けられています。『たまこラブストーリー』というタイトルに呼応するようで興味深いですし、一方でロイ・アンダーソン監督の映画『スウェーディッシュ・ラブ・ストーリー』(1971年)とも共振しているように思えます。