【舞台探訪】映画『聲の形』 舞台ガイド(暫定版)+作品考察メモ(Part.1)

本稿は9月17日に公開された山田尚子監督の映画『聲の形』の舞台探訪記事(暫定版)+作品考察メモです。一本の記事で映画全編を紹介するのはボリューム的に不可能なので、ストーリー順に幾つかに分けてご紹介します。今回はそのPart.1です。

「舞台ガイド」の(暫定版)と銘打っているのは、DVD&Blu-Rayが発売されていない現時点(10月下旬)では特報や予告編のキャプチャーしかないため、掲載した写真のほとんどは映画を観た記憶に基づいて取材したものであり、キャプチャーつきの完全版に向けての第一段階の記事と位置づけているからです。「作品考察メモ」とあるのも、今後執筆するかもしれない作品考察のためのメモをストーリーの要所要所に備忘録として残しておくという趣旨です(執筆しない場合はここでのメモが作品考察記事そのものに昇格します(笑))。

従いまして、まだまだ(完全版)とは言えない記事ではありますが、ストーリー順に写真を掲載し、かつ出来る限り劇中のカットに合わせて撮影しています*1ので、あのシーンのあの場所はどこだろう?と知りたい方にとっては、てっとり早くご利用いただける記事になっていると思います。なお劇中のキャプチャーは場面の説明に不可欠な場合を除き、基本的に掲載しません。キャプチャーつきの舞台探訪記事は(完全版)にリニューアルするまでお待ちください。
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(上)映画公開後の"聖地"大垣コロナシネマワールドのロビーの様子。アニメの複製原画が展示されていました。

このようなコンセプトの記事ですが、写真に添えた場面の説明文や台詞を読み進めているうちに映画を追体験できるような記事になっていれば、作り手としてこれに勝る喜びはありません。掲載した写真の多くは映画公開後にあらためて現地を訪問して撮影したものが主ですが*2、一部は原作探訪時に撮影した写真を流用しています。あらかじめご了承ください。f:id:los_endos:20161017164535p:plain
(上)平成28年10月8日に大垣コロナシネマワールドで行われた舞台挨拶後の山田尚子監督と将也役の入野自由さんのサイン。


なお、大今良時さんの原作全7巻の舞台探訪+考察記事はこちらにあります。適宜ご参照ください。原作の考察も映画を読み解く上で多少は役に立つはずです。
またこれらの記事の中で私は手話の解説を幾つか試みています(拙いものではありましたが)。それらは映画の中にそのまま登場したものもあれば、異なる手話で描かれたものもあります。映画をご覧になったときに台詞や説明がなくて意味が掴み取れなかった手話の幾つかは、この原作版の記事でご確認いただけるかもしれません。合わせてご笑覧いただければ幸いです。 

・【舞台探訪】『聲の形』(原作):第1巻
・【舞台探訪】『聲の形』(原作):第2巻
・【舞台探訪】『聲の形』(原作):第3巻
・【舞台探訪】『聲の形』(原作):第4巻
・【舞台探訪】『聲の形』(原作):第5巻
・【舞台探訪】『聲の形』(原作):第6巻
・【舞台探訪】『聲の形』(原作):第7巻


原作版で作成したマップ(地図)も映画版でほぼそのままご利用いただけます。ただし映画で初登場となった舞台も幾つかあるので、映画専用のマップもあらためて作成いたします(当記事の末尾に掲載します)。下記の原作版マップと合わせてご利用ください。
・『聲の形』(原作):舞台マップ

 


さて、舞台探訪の記事に入る前に、映画の感想と総括的な考察メモをここに掲載しておきます。舞台背景の写真や情報を早く知りたい方は、ここからしばらく長々と続く駄文は全部すっ飛ばして先へ進んでください。

【考察メモ:総括的な5つのポイント】

1.映画『聲の形』が描こうとしたもの : 原作との相違点
映画『聲の形』は、原作の枝葉の部分を大胆に刈り取ることで、将也の物語に焦点を絞りきった作品となりました。全7巻ある原作を淡々と映画化してしまうとエピソードの羅列になりかねないリスクがありましたが、物語の中心に一本の揺ぎない軸を通したことで求心力をもった完成度の高い映画になったと思います。その分、展開がやや駆け足に思われたり、重要なシーンを割愛したことで説明不足に陥っている箇所もあるにはあるのですが、初回に観た時の映画的な満足度やカタルシスは相当のもので、ありとあらゆる感情を激しく揺さぶられるような全感覚的な体験を味わい、鑑賞後しばらくは頭と身体が痺れたようになって動けなかったことを覚えています。原作ファンも納得の傑作の誕生です*3

映画は、かつて自分の犯した罪の意識のために自己懲罰的なパーソナリティを持った青年に育ってしまった将也が、自らの過去と向き合い、固く閉ざしてしまった目と耳を開いて周りの世界を受け入れる、すなわち自分自身を受け入れるに至るまでの、象徴的な意味での「死と再生」の物語として描かれました。冒頭とラストに出産の瞬間を想起させる映像の演出があるのもそのためです。

原作にあったサブキャラクターのエピソードを大きく割愛した代わりに、将也が一人の人間として生まれ変わるまでの姿を丹念に繊細に描いています。目と耳を閉じて決して触れまいとしてきた過去、そして現在の自分の姿を直視し、それらを乗り越えて、変わること。ラストシーンで泣きじゃくる将也の姿は、苦しみぬいた自分自身を赦せることができた瞬間に訪れた魂の解放であると同時に、新しくこの世に生まれ変わった赤ん坊の産声でもあるわけです。



2.聴覚障害といじめは作品のテーマではない

「反復と相似、もしくは相違」・・・映画の中には繰り返しこのモチーフが登場していることにお気づきでしょうか(原作においては隣り合うコマや見開いたページ単位で意図的にシチュエーションが反復されていることが映画以上に顕著に描かれています)。

この作品はある状況が発生する前に予兆や前兆のように同じシチューションが先取りされて描かれることが多いという特徴があります。最初は予兆として、二度目は本番として。ただしその結果は相似か相違かという二つの方向に分岐します。

アバンにおける揖斐大橋での将也の死の夢想は、後の硝子の投身未遂という形で反復されます。また花火の打ち上がる音が将也を自殺の夢想から現実へ引き戻したのとは対照的に、硝子にあっては死への決断を促しています。水面へ飛び込む小学生時代の将也の「度胸試し」は、後の彼自身の転落の予兆ですし、橋から落ちた筆談帳を取りに水面に飛び込む硝子の手を掴めなかった将也は、硝子がベランダから落ちた時はその腕を掴むことで彼女の生命を救うことができました。将也が硝子のためにかつての仲間とコンタクトを取ろうとしたように、硝子もまた意識を失った将也のために壊れてしまった人間関係を回復させようと行動を起こします。

このように同じシチュエーションが何度か繰り返され、将也と硝子はまるで合わせ鏡のようにそっくりな行動を取ります。二人の「しょーちゃん」は互いの因果が影響し合っているかのような相似形として描かれているわけです(更に二人の家族に目を向けると、父親不在の女性だけの家族構成*4、将也の母と硝子の右耳の傷の相似等もありますが、これらについては後に述べます)。


しかし、これほど似た存在でありながら、実はこれほど遠い存在もありません。劇中の舞台として「養老天命反転地」が登場し、「極限で似るものの家」が描かれるのは物語上の必然です。それはまさに彼ら二人の置かれた状況そのものだからです。限りなく近づきつつ、しかし完全には一致することのない関係性。それは将也と硝子を表わすものであるとともに、この物語の核となる人と人との「コミュニケーションの在り方」を如実に示しています。

将也は硝子に言います。「君のことを都合よく解釈していた」と。聴覚障害というテーマを扱った作品ではありますが、これはあらゆる人間関係に共通する普遍的な課題です。伝えたいことを伝えることの困難性、他人を理解したような気になってしまう身勝手なエゴイズム、完全に分かり合うことの不可能性。これらは人と人とが関わり合う上で必ずついて回るいわば人間の本質=宿業と言えます。だからこそ、相手が何を言おうとしているのか、その「こえ」を限りなく(完全には不可能であっても)理解しようと真摯に心を砕いて「聴く」ことが求められるわけです。そうすることによって初めて本当の意味でのコミュニケーションが成立します。意思伝達と相互理解の持つ困難性の超克こそが、この作品の最も重要なテーマです。聴覚障害といじめという側面だけに目を向けてしまうと、作品の本質を見誤ることになるでしょう。



3.映画『聲の形』の映像言語 : フィルムの構造/記号/運動性

前述した映画全体を貫く「反復と相似/相違」という構造に加え、頻出する「橋」「水」「花」「十字架」といった象徴的な記号と、「飛び込み」「花火」「滝」「涙」「雨」「ジェットコースター」に代表される垂直方向への落下や下降、および「波紋」「鯉」「通学風景」「鉄道の車窓風景」「橋に集まる」などに見られる水平方向へ移動・拡散する映像の運動性は、いずれもこの映画を読み解く上で様々な示唆を与えてくれます。これらについては各場面で詳述します*5



4.天命を反転させるための装置 : 「養老天命反転地

物語全体の主要なモチーフとなる「飛び込み」が冒頭から描かれていることからも分かるように、この物語には初めからずっと「死」の影が付きまとっています。

養老天命反転地」で硝子は将也に言います。「私と一緒にいると不幸になる」と。お互いに関わりたいのに関わることによって不幸が波紋のように周囲へと広がってしまう。将也と硝子が共に背負ってしまった十字架は、寄り添いたいと思う二人を否応なく傷つけ、引き離していこうとします。その宿業を払拭し「再生」に至るためには将也と硝子の意識が変化するより他に道はありません。それは彼らに架せられた「天命」を「反転」させたときに初めて覆すことのできるものでした。

養老天命反転地」がこの作品に登場する意味については原作探訪の第5巻の記事内で詳述しています。少し長くなりますが以下に引用します。

” 彼ら(荒川修作+マドリン・ギンズ)がこの作品群で目指した主要コンセプトは「身体に作用する環境=建築」であり、「身体感覚の変革により意識の変革」をもたらすことで「死を前提とした消極的な生き方を改め、古い常識を覆す」ことにあります。それゆえ、養老天命反転地には身体の平衡感覚や遠近感を著しく狂わせ、我々の知覚を激しく撹乱させるための様々な仕掛けが施されています。ここには垂直水平に立つ建築物はひとつもなく、さながら大震災の後の被災地の風景に迷い込むような異様な感覚に襲われて、人によっては眩暈や軽い吐き気を催すこともあります。歩くという基本動作でさえぎこちなくなり、自分自身の身体感覚がいつもより鋭敏になっていることに気づかされます。

まるで生まれたての赤ん坊が初めて広大な世界を前にした時のような知覚の再構築が行われるその時、養老天命反転地は人間に定められた天命を反転させるための、与えられた運命から自由になるための訓練を行う装置として機能するわけです。荒川+ギンズの狙いはまさにその一点にあります。”

養老天命反転地」の中で最も重要なコンセプトを担う建築物の名前が「極限で似るものの家」であることをここであらためて想起しておくべきでしょう。すべては将也と硝子の二人を描く上で必然として選ばれた場所なのです。原作を読んだときに一番衝撃を受けたのはこの点でした。この辺りについては映画版の記事内でもあらためて触れる予定です。



5.生きるための練習曲 :"J.S.Bach: Invention No.1 C Dur, BWV 772"
この映画の音楽面での最大の仕掛けは「バッハのインベンション 第1番ハ長調」です。劇中での使われ方は前例のないほど異様なもので、ここに映画の隠しテーマとしての「練習」のモチーフが顕著に見て取れます。

バッハの音楽は右手で主旋律、左手で伴奏を弾くといったような類のものではなく、複数のメロディが同時に奏でられる「多声音楽(ポリフォニー)」と呼ばれるもので、ごく簡単に言うと右手と左手がそれぞれ独立したメロディーを奏でながら複数のメロディーが絡み合って楽曲全体を構成するというものです。2つのメロディー(二声)で構成されるものがインベンション(Inventio)、3つのメロディーで構成されるものがシンフォニア(Sinfonia)と呼ばれます*6これらは、より複雑で難易度の高い平均律クラヴィーアを弾きこなすための練習曲であると同時に、バッハの多声音楽(ポリフォニー)の曲想を構造的に理解するための入門編の音楽でもあるわけです。詳しくはこちらを参照されると良いでしょう。

全15曲あるバッハの「インベンション」の中でも「1番ハ長調」は最も初歩的な練習曲とされています。具体的には以下に紹介する動画をご覧ください。これは右手と左手の指の動き(音の配列)を視覚化しているので、楽譜の読めない人でもこの曲の楽曲構造を理解しやすい映像です。いかがでしょう。2つの独立したメロディーラインが追いつ追われつ絡み合うようにして楽曲の全体を構成していることがお分かりいただけるでしょうか。

J.S. Bach: Two-part Invention No. 1 in C Major BWV 772 piano (Synthesia)

右手のフレーズのあとを左手のフレーズが同じ動きで追い、時に左手が先行して今度は右手がそれに倣う。更には幾何学的と言ってもいいような対称的な動きを示し、2つのよく似た音列は近づきながら離れつつ互いに手を取り合って軽やかにダンスを踊っているかのようです。この2つのメロディーラインの反復と相似、あるいは相違を奏でる音の配列は、「極限で似るもの」である将也と硝子の2人の存在を表わしているようであり、かつ『聲の形』という物語のストーリーラインをも象徴しているように私には思えます。

さて、ここまでの説明で「インベンション 第1番ハ長調」が、映画『聲の形』で使われる理由やその必然性はお分かりいただけたかと思いますが、ではいったいどこで使用されているのか、初見ではまずほとんどの人が気づかないはずです(私も分かりませんでした)。結論を先に言う、本来は1分20秒ほどの長さしかないバッハの「インベンション 第1番ハ長調」は、この映画の中では元の音列をバラバラに分断し、まるで点描のようにポツンポツンと極端なまでに音数を減らして演奏されているのです。その音が最初に登場するのは、映画のオープニングが終わり、硝子がランドセルを持って教室に入ってくるシーンです(将也の「はあ?興味ねーし」の台詞のあと)。このピアノの音が「インベンション 第1番ハ長調」の音列なのです。

断片化された「インベンション」の音の欠片は、その後に続く各場面でも点々と断続的に現われ、最後に高校の文化祭で将也と硝子が校門をくぐる場面でようやく曲が終わるという構成です。この文化祭の直前の場面で初めて「インベンション」のメロディーらしいメロディーを聴くことができます。ただしこれも音符通りではなく、音の断片を拾いながらゆっくりスピードを落として演奏されています*7

より高度な楽曲を弾きこなすための練習曲が、映画の最初から最後まで(それとは気づかない形で)ずっと通奏低音のように流れていることは、この物語が将也にとって「生きるための練習」であり、「より多彩で豊穣な世界を知るためのレッスン」であることを示唆しています。そしてこの曲は、将也と硝子が高校の門をくぐるところで終わります。つまりこの段階で練習は終わり、生まれ変わった将也の新たな人生の本番がここから始まるわけです。

話が長くなりすぎました。以後の【考察メモ】は各場面ごとの気づきや備忘録を順次記していくことにして、ここから先は作品舞台の紹介記事に入ります。

 

  

■舞台探訪:映画 『聲の形』 Part.1
※各シーンの場所情報はGoogle Mapにまとめてあります。各々の場所を確認されたい方は、当記事末尾に掲載しているMAPを拡大してご覧下さい。


アバン・タイトル 
a point of the light,  the shape of voice
暗闇に響く心臓の鼓動*8、画面中央に産道の向こうから差し込むような光の点、その中を歩く人影。切れ切れにインサートされるa point of the lightのロゴ。やがて人影は一人から二人に。幾つもの光の波紋。黒一色の画面は明るくなって鯉の姿を映し出す。"the shape of voice"の英字タイトル*9。田舎道をとぼとぼと歩く将也の姿。f:id:los_endos:20161017181722p:plain
(↑)橋の下を泳ぐ鯉の姿と水面の波紋に"the shape of voice"の映画のタイトルがオーバーラップします。美登鯉橋の下にいるのは普段は黒い鯉ばかりなのですが、この日は珍しく赤色の美しい鯉がいました(劇中のような錦鯉はいませんでした)。


飛び降りを夢想する将也: 揖斐大橋 MAP 01
4月16日以降のカレンダーを破り捨て、バイトを辞め、家財道具を売り払った将也。彼が自らの死に場所を探してやってきたのは大垣市の東を流れる揖斐川にかかる揖斐大橋です。彼が向いている方角が南北のどちらかなのかは正確には分からないのですが、風景の近似性と、将也の夢想するシーンが夕陽を正面から受ける方向であることから、南向きと判断しました。
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(↑)身辺整理を終えた将也が立ち寄る橋。橋のたもとで打ち上げ花火に興じる人達がいる。f:id:los_endos:20161017163128p:plain
(↑)将也の夢想。ここから飛び降りる自分の姿を思い浮かべる…。f:id:los_endos:20161023085906p:plain
(↑)打ち上げ花火の音にハッと夢想を破られ、現実に立ち帰る将也。

【考察メモ】
4/9(水)バイトを辞める。4/11(金)業者ひきとり。4/14(月)銀行で預金を下ろす。4/15(火)最終日。この暦は2014年です。『聲の形』の小学生時代は2008年、高校生時代は2014年(原作の連載当時)の物語で奇しくも同じ曜日の暦です。ちなみに原作者の大今良時さんが最初の読み切り版『聲の形』を執筆されたのが2008年でした。


硝子の筆談帳を持って橋を渡る将也: 美登鯉橋 MAP02
物語のキーポイントとなる橋です。ここは大垣市の四季の広場にある美登鯉橋(みどりはし)。とぼとぼと橋を南向きに歩く将也の姿を捉えながら、若さと反抗の永遠のアンセムThe Whoの”My Generation”のイントロが流れ出します。OP~小学生編の終わりまではこの橋を渡る途中の将也の回想です。f:id:los_endos:20161017163933p:plain
(上)劇中では美登鯉橋の西側から橋越しに右方向へ筆談帳を持って歩く将也と奥のマンションを捉えていますが、同じアングルでの写真撮影はほぼ不可能なので、ここでは同じ桜の季節の写真を掲載しておきます。


The Who - My Generation

やつらは俺たちをおとしめようとする
(俺の世代の事を言ってるんだ)

俺たちうまく避けてるはずなのに

(俺の世代の事を言ってるんだ)

あいつらぞっとするくらい冷酷だな

(俺の世代の事を言ってるんだ)

年とる前に死にたいぜ

(俺の世代の事を言ってるんだ)

これが俺の世代さ

これが俺の世代なんだ
ベイビー

おまえらみんな消えちまえ

(俺の世代の事を言ってるんだ)

俺たちが言っていることをいちいち探るんじゃねえ
(俺の世代の事を言ってるんだ)

センセーションなんて起こす気はないぜ
(俺の世代の事を言ってるんだ)

俺はただ俺の世代のことを言ってるだけさ
(俺の世代の事を言ってるんだ)

これが俺の世代だ
これが俺の世代なんだ
ベイビー

"My Generation"/ THE WHO(1965)
(対訳:エンドス)

山田尚子監督とThe Whoとの関わりは、『けいおん!!』にまで遡ります。詳しくは以下の拙稿を参照してください。

 

OP
小学生時代の悪ガキ3人組の飛び込み(度胸試し): もぐり橋の東の土手 MAP03
MAP04で紹介する「もぐり橋」の東側、用水路の土手越しに見た徳勝寺の屋根です。f:id:los_endos:20161017182536p:plain


同上: もぐり橋 MAP04
大垣市郊外を流れる杭瀬川にかかる「もぐり橋」。ここは幅1.6mほどの柵のない軽自動車一台通るのがやっとといったくらいの小さな橋です。劇中で将也と島田と広瀬の3人は後ろに下がって助走をつけているように見えますが、実際にはそれほどの幅はありません。すぐ北側を新幹線が通っています。f:id:los_endos:20161017183229p:plainf:id:los_endos:20161017183453p:plainf:id:los_endos:20161023090251p:plain
(上)もぐり橋の全景(東向き)。画面奥にMAP03の土手が見えます。


同上: 美登鯉橋 MAP02
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(上)原作探訪記事と同様、スカイDJ様よりいただいたかつての美登鯉橋南側の風景写真です。現在はこの工場は取り壊され住宅地となっています。

 

横断歩道で3人組とすれ違う川井と植野: OKBストリートの横断歩道 MAP05
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(↑)「度胸試し」から帰って来た将也、島田、広瀬の3人が並んでいる場所。f:id:los_endos:20161018155042p:plain

(↑)横断歩道の反対側。こちらには川井と植野の姿が。f:id:los_endos:20161017211315p:plain

【場面解説】
横断歩道で3人と2人がすれ違う瞬間の植野のわずかな視線の揺らぎ。小学生の頃から将也に想いを寄せていたことをほんの一瞬の目の動きで表現しています。実に上手い演出です。


HAIR MAKE ISHIDA MAP 未掲載
将也の住む家であり、母の営む理容店HAIR MAKE ISHIDAは実際に大垣市内にモデルとなる理容店が存在します。しかし原作第1巻の舞台探訪記事でも触れた通り、お店の迷惑になることを考慮して店名・MAPの掲載は差し控えます。ここでは同一のアングルで何度か時間帯を変えて登場したこのカットを載せておきます。f:id:los_endos:20161017212148p:plain

【場面解説】
将也と島田と広瀬が店内に入ってきたとき、彼らが通り過ぎる奥に、髪に葉っぱをつけて俯き加減で雑誌を広げている髪の長い硝子の姿が見えます。これは前の学校で補聴器を川へ流されるいじめに遭った後、髪を短くするよう母親に連れてこられた直後のシーンです(原作第2巻P.114-120→第1巻P.27-28→第1巻P.59-66→第4巻P.158-161の流れを参照)。


小学6年生
小学校の校舎: 興文小学校 MAP06
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【考察メモ】
合唱曲を練習する音楽室の場面。ここでは見逃せないポイントが2つあります。ひとつはシクラメンの花、もうひとつは合唱曲「怪獣のバラード」です。

映画『聲の形』では、山田尚子監督のこれまでの映画『映画けいおん!』『たまこラブストーリー』と同様、花が至るところに描かれています(映画が原作と顕著に異なるのは、この執拗なまでの花の描写です)。花言葉も含めてその意図するところは充分に考慮しておく必要があるのですが、劇中に7回も登場するシクラメンの鉢植えはとりわけ目につきます。しかもそれは一般的なシクラメンの赤色の花弁ではなく、ピンクとブルーの二色に限定されています。場面の直前に映像がインサートされることもあれば、画面の片隅に描かれていることもあります。登場箇所と花の色を整理してみましょう(登場順です)。

①音楽室での合唱の練習場面の直前        ピンク
②きこえの教室の喜多先生の場面の前        ブルー
③硝子、教室に持って入ってくる            ブルー
④硝子、将也の机を拭く(窓際)          ブルー
⑤将也、自分の机を拭く(窓際)          ブルー
⑥将也、転落の直前の回想。硝子が抱えている。    ブルー
⑦硝子の夢。みんなと仲良くしているシーンの直前   ピンク

ここで注意しておきたいのは、ピンクとブルーはそれぞれ硝子と将也のイメージカラーであるということです。それは二人の涙の色がそれぞれピンクとブルーで描き分けられていることからも分かります。ではここでシクラメンの色が使い分けられている意味は何でしょうか?

シクラメン花言葉を調べてみると「遠慮」「気後れ」「内気」「はにかみ」などとあります。花弁の色別にも花言葉はあるようで、ピンクのシクラメンは「憧れ」「内気」「はにかみ」となっていますが、ブルーに関しては決まった花言葉はないようです。これは私の勝手な憶測ですが、シクラメンは二人の置かれている状況=互いの「こえ」が伝わらないばかりにコミュニケーションが取れないもどかしさや相手との距離を象徴しているように思えます。①と⑦は硝子の視点や意識が強く表出される場面であること、③~⑥はいずれも将也の意識が主体となる場面であることから、このような色分けが成されているのではないかと解釈しています。

そしてもうひとつ。合唱曲の「怪獣のバラード」ですが、こちらは劇中に4回登場します。シクラメンと同じく整理してみましょう。これも登場順です。

①音楽室での合唱の練習場面
②将也が硝子の補聴器を窓から投げ捨て、いじめが始まる場面(イントロのみ)
③再会した佐原みよこと硝子のカラオケ動画(佐原のメール)
④養老への旅の後、部屋で口ずさむ将也。「取り返しつく気がしない・・・」

歌詞を読めば分かるとおり、砂漠に住む孤独な怪獣が不毛な砂漠を捨てて愛と海のある新天地へ旅立つという歌です。興味深いのは④での引用です。将也が口ずさむのは「海が見たい/人を愛したい/怪獣にも」の一節。この後に続く「心はあるのさ」を歌う手前で不意に止めて、「取り返しつく気がしない・・・」の台詞に繋がります。硝子の言った「私と一緒にいると不幸になる」の一言が頭から離れないこの時の将也は、夢と希望に溢れたこの歌の続きを歌うことができなかったのです。


小学校の校庭: 興文小学校 MAP06
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(↑)硝子「(手話)ともだち」。将也、硝子に砂を投げつける。「なんだよ・・・気持ち悪りぃ!」
【場面解説】
小学校のモデルは原作と同じく大垣市立興文小学校ですが、原作にあったような正門付近の風景は描かれていません。将也が硝子の筆談帳を池に放り込む直前のシーンで校内から正門がわずかに見えるカットがある程度です。それを見る限り、東側の新体育館が出来る前の風景を元に描かれているようです。新体育館についての詳細は原作第5巻の記事を参照してください。
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(上)植野と硝子の赤いジャングルジムもすぐそばにあります。劇中では奥から手前を向いたアングルです。

なお上掲の写真はいずれも学校の南側通用門付近、および東側の道路から撮影したものです。くれぐれも無断で学校の敷地内へ立ち入っての撮影はしないでください。

【考察メモ】
不登校になった佐原みよこが教室を去った後、彼女の机の上に十字架の形の影が射していることに注意が必要です。十字架は花火大会の日、硝子の姿に重なるイメージとして再度登場します。まるで硝子自身が宿命として背負ってしまった十字架のように。

将也とともに養老へ行った日の硝子の言葉「私と一緒にいたら不幸になる」は、彼女が幼い頃から抱えてきた心情の吐露であって、決して昨日今日芽生えた意識ではなかったはずです。それは小学生時代、どれほど酷いいじめに遭っても決して怒ることなく、ただ「ごめんなさい」と返す硝子の姿に既に表れています。彼女の意識の中では、いじめられるのは周囲に迷惑をかけている自分が悪いのだという加害者意識、原罪意識が根強くあったのです。

ちなみに「十字架」は映画の中では以下のシーンで描かれています。救急車と硝子の母の姿を除けばサブリミナル的にほんの一瞬描かれているだけなので気づいていない人も多いと思います。
・上述した佐原みよこの机に射す影。
・ベランダから身を投げようとする硝子を廊下の扉越しに将也が目撃する瞬間。
 (→扉の桟が十字の形になって硝子の後ろ姿に被さっている)

・その直後、外から差し込む花火の光で十字架の影が廊下に射す。
・救急車のパトライト
・西宮家。写真を剥がす硝子の母の肩越しの扉。

その他では硝子の浴衣の模様なども十字模様という意味では上げておいても良いかもしれません。将也と永束がフードコートで飲むジュースのカップにも十字模様が見られますが、さすがにこれはこじつけになってしまいますね。


将也の母、硝子の母に謝罪: 総合福祉会館前 MAP07f:id:los_endos:20161018092659p:plain

ひとりその場に残る将也: 総合福祉会館前 MAP07 
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(上)上掲の写真の真反対のアングルです。

鳩にエサをやる硝子。後ろを通り過ぎる将也: 四季の広場 ウォーターガーデン MAP08
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思わず転ぶ将也。一斉に飛び立つ鳩: 四季の広場 ウォーターガーデン MAP08f:id:los_endos:20161018094147p:plainf:id:los_endos:20161018094310p:plain

【考察メモ】
この場面の直後、将也を迎えに来た母親の右耳からは赤い血が滴り落ちていました。原作ではモノクロの上、たった1コマだけさらっと描かれているので見過ごしている人も多いと思われる問題のシーンですが、映画ではむしろ尺を取って生々しく描いています。唐突とも思えるこのシーンについては、原作第1巻の記事で私の見解を書いていますので参照してください。右耳の傷は将也が硝子につけたのと同じ傷。将也の母は子を持つ母のけじめとして、また一人の女として、耳のアクセサリーを自らもぎとることで硝子と同じスティグマを刻み込んだと見るべきでしょう。なお原作にはなかった将也と硝子の母親の名前は、映画ではそれぞれ美也子、八重子の名前が与えられています。

小学生編の終わりでは、画面が暗転して水滴の落ちる音とともに「波紋」が描かれます。この水滴はまるで将也の心の涙のようです。波紋は周囲に向かって同心円状に広がっていき、別の波紋と干渉し合って新たな紋様を生み出します。ひとつの出来事がもたらすムーブメントは周囲に広がって様々な影響を与えていきます。なお波紋は、花火大会で硝子が持つコップの描写にあるように、音の形、視覚化された音でもあります。



5年後の春
将也、硝子に会いに手話教室へ: 大垣市総合福祉会館 MAP09f:id:los_endos:20161018101638p:plain
(上)桜の季節の大垣市総合福祉会館。

【考察メモ】
5年ぶりに現われた将也との予期せぬ再会に困惑して、思わずその場を逃げ出してしまった硝子は、総合福祉会館2階の廊下へ駆け込み、そこで手すりを掴んだままうずくまってしまいます。後を追ってきた将也が慌てて手すりに触れた瞬間、その「コンッ」という響きが伝わって、将也の存在に気づく硝子。

私は先に「この作品はある状況が発生する前に予兆や前兆のように同じシチューションが先取りされて描かれることが多い」と書きましたが、この二人の再会の場面は、夜の美登鯉橋まで駆けて来て慟哭しうずくまる硝子が、病院を抜け出して橋へやって来た将也の存在に気づく場面でそっくりリフレインされます。

「声」や「音」は耳で聞こえなくても、「響き」なら身体で感じられる。それは花火大会の場面で硝子が将也に手話で伝えたことでもあります(コップの中の波紋がそれを視覚化しています)。
・総合福祉会館で将也が追ってきたことに硝子が気づく場面
・花火大会での硝子の言葉(手話)
・夜の美登鯉橋で将也がやって来たことに硝子が気づく場面
身体に伝わる「音の響き」という「こえのかたち」を媒介として、これらの場面は互いに呼応し合っているわけです。


余談ですが、大垣市総合福祉会館の撮影についての当ブログの取材ポリシーをここで表明しておきます。私はこの施設の性質上、内部に立ち入っての撮影は好ましくないと考えており、原作の舞台探訪記事でも公共空間から見ることのできる建物の外観の撮影にのみ留めています。映画版の舞台探訪記事も同じポリシーとします。これは是非の問題ではありません。許可を求めれば撮影も掲載も可だとは思いますが、そのような対応をされる施設の従業員の方の手間や迷惑を考えると、とても内部の取材をする気にはなれないという心情的な理由によるものです。


なお福祉会館内の室内を撮影した写真が掲載されている大垣市ボランティア市民活動支援センターのサイトがありましたので、以下にご紹介しておきます。劇中の手話教室と同じ構造の部屋であることが分かります。

【考察メモ】
なぜ将也は硝子の筆談帳を持っていたのか?なぜ小学6年生のあの日、将也が硝子の筆談帳をあの池の中から拾い上げることができたのか?将也に筆談帳を放り込まれた後、硝子は自ら池の中まで取りに行ったのではなかったのか?映画だけを観ている人にはこの場面の説明がつかないと思います。これは原作を読んでいないと分かりません。この映画の脚本に瑕疵があるとすれば間違いなくこの一点です。

原作では第6巻の硝子の回想シーンの中で描かれ、原作のオリジナルとなった読み切り作品『聲の形』のリメイク版ではクライマックスとして大ゴマで描かれていた重要な場面が映画では割愛されています。詳しくは今申しあげた原作をお読みいただくのが一番ですが、ひとことで言うなら「硝子は一度池の中から拾い上げた筆談帳を自らの意志でもう一度水底へ沈めた」のです。つまり「皆さんとこのノートを通して仲良くなりたい」という想いを自ら諦めてしまったのです。この場面が描かれていないとこの時の硝子の絶望感と、結絃の回想シーンで泣きながら喉を突く硝子の手話(=「死にたい」)の映像が繋がってきません。それだけでなく、なぜ結絃が動物の死骸の写真を家中に貼り付けているのかの理由も分かりません。一応本人の台詞で説明はありますが、これだけでは説得力を欠きます。

筆談帳を捨て去る硝子の決断を巡る場面は、せめてあと1分でも良いので尺を伸ばして描いてほしかったというのが私の本音です。この点に関しては結絃の回想シーンで再び取り上げます。


将也、高校へ行く: 駒込高等学校 MAP10
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【場面解説】
原作の舞台探訪記事では高校名とMAPを表記して良いものか悩みましたが、映画のEDクレジットにしっかり記載されていたので今回は堂々と書くことができます。将也の通う東地高校は大垣市どころか岐阜県ですらない、なんと東京都文京区の駒込高等学校がモデルです。校内もかなり正確に描写されているようです。現役の学校なので通常は中に立ち入ることはできませんが、毎年9月下旬に開催される文化祭「玉蘭祭」(2016年は9月24日-25日開催)は一般公開もされているので、このタイミングを狙えば撮影も可能でしょう。

【考察メモ】
勢いで硝子に「ともだちになれるか」と言ってしまったものの、クラスメイトが自分をどんな風に見ているかを想像して「だよなぁ・・・」と自己嫌悪のあまりに俯いてしまう将也。教室の窓の外は雲ひとつない真っ青な空と、泳ぐように悠揚と進む飛行船。この場面は、将也の悩みとは無関係に周囲の世界は美しく超然とそこにあること、そしてこんなにも素敵で面白い光景が目の前にあるというのに自ら心を閉ざしてしまった将也がそのことにまったく気づいていないことの明白な対比です。

よく見るとクラスメイトの何人かは将也に声をかけて外を見るように促していますが、この時の将也はまったく聞く耳を持ちません。彼が感じている周囲からの断絶は、実は将也が自ら招き入れている状況であることがよく分かる場面です。彼は彼自身を赦すことができないために、本来好意的に接してくれているはずの周囲をも拒絶してしまっているのです。将也が孤立したのは周囲のせいではなく、むしろ彼自身の心の在り方によるものでした。映画のラストシーンで将也が辿り着いた心の解放は、目と耳を開いて周囲を受け入れることでしたが、それは同時に自分自身を受け入れることでもあったのです。


結絃に追い払われ、ひとり鯉にパンをやる将也: 美登鯉橋 MAP02
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(↑)「あなたは本当にともだちですか」の結絃の言葉が将也の胸に深く突き刺さる。将也「ともだち・・・」。彼が投げ入れたパンに食いつく鯉はいません。写真は桜の季節の美登鯉橋です。


自転車を探し出して将也に渡しに来た永束: HAIR MAKE ISHIDA MAP 未掲載
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(↑)永束「石田くーん!見てこれー!見てこれー!自転車ー!君のだよねー!」

【考察メモ】
将也の通学風景はいつも大体同じで、田舎の一本道を登校時は左から右へ、下校時は右から左への水平方向の移動として描かれます(例外は川井みきに過去をばらされて逃げ出すシーンで、この場面は前後の描写が加わっています)。垂直方向への運動性が状況の激しい変化をもたらすのに対し、水平方向の移動は現状の維持・拡張・発展などと結びついているようです。


永束と将也、映画館へ行く: 大垣コロナシネマワールド MAP11
「友達」になった二人がやってきた映画館は、10月8日の舞台挨拶で山田尚子監督が大垣コロナシネマワールドをモデルにしていると発言されている通り、基本的にここで間違いないのですが、館内やロビーをまったく同じように描いているという訳ではありません。というか細部が色々と違います。ここでは映画『聲の形』で沸き立つ"聖地"大垣コロナシネマワールドの様子を何枚か掲載しておきます。

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(上)隣のボウリング場まで『聲の形』一色でした。

【場面解説】
二人が映画館を出てフードコートで話すシーン(永束「やーしょー、手出して」)は、大垣コロナシネマワールドの横にあるイオンモールではなく、JR大垣駅北にある複合商業施設アクアウォーク2階にあるフードコートです*10イオンモールは全国どこも一律で館内撮影は禁止ですが、アクアウォークも許可なしでの写真撮影・掲載はNGです(受付カウンターで確認済み)。撮影に当たっては申請書類の事前提出が必要とのことだったので今回は写真は撮影していません。二人が座っている場所はフードコートの「ファーストキッチン」の前あたりと書いておきます。ちなみに原作第4巻で将也が結絃を連れてきた場所のすぐそばです。

【考察メモ】
永束と将也のフードコートの場面で流れているBGM(O.S.T."laser")は、硝子の「つきっ!」の告白場面の後のフードコートのシーンでも流れていますが、実は文化祭での3-Bの模擬店内でも同じ曲が流れています。将也の回復を願う永束の選曲だったのかもしれません。


将也、再び手話教室へ: 大垣総合福祉会館 MAP09
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(↑)結絃「手話じゃねーの」。劇中で手話教室が開催されている3階のベランダです。

【場面解説】
結絃のでたらめ通訳のおかげでこの時の将也と硝子の手話の正しい内容を読み取れていない人も多いと思いますので解説しておきます。硝子は後ろ姿なので分かりにくいのですが、これで合っているはずです。

硝子:「(左の手のひらの上で右手の親指と人差し指で丸を作って2回指先へすべらせる)使う」
→(意訳)「筆談帳を使う?」

将也:「(胸の前で両手の人差し指をくるくる回す)手話」「(両の手のひらを胸の前で開く)勉強」「(右手を左肩から右肩へ動かす)大丈夫」
→(意訳)「手話を勉強したから大丈夫だよ」


二人並んで鯉にパンをやる将也と硝子: 美登鯉橋 MAP02f:id:los_endos:20161018160649p:plainf:id:los_endos:20161018161247p:plain
(↑)二人並んで鯉にパンをやる将也と硝子。桜の季節の写真も合わせて掲載します。

【場面解説】
ここで硝子がふと思い出したように将也の服の裾をつかんで、筆談帳を見せてから左の手の甲に右手をトンと当てて手刀を切るような仕種をします。これは手話で「ありがとう」です。

硝子:「(左の手の甲に右手を軽く当てて手刀を切る)ありがとう」
→(意訳)「筆談帳を持ってきてくれてありがとう」

 【考察メモ】
聲の形』で交わされる主要な手話を憶えておくと、硝子が何を言おうとしているのかはっきりと分かるので、映画を観た時の感動の度合いがかなり違ってくるはずです。最低限、以下の手話を頭に入れておくと良いでしょう。実際の手話の動きを見せてくれる手話CGの教材が役に立ちますので、幾つかリンク先を紹介しておきます。

友達 (→小学生時代、福祉会館の再会シーンでの将也など)
手話 (→福祉会館の再会シーンでの硝子、美登鯉橋の将也など)
ありがとう (→美登鯉橋で筆談帳のお礼を言う硝子、花火大会の硝子など)
大丈夫 (→美登鯉橋の将也、ホワイトサイクロンの後の将也など)
うれしい (→硝子と再会した佐原、ホワイトサイクロンの後の硝子など)
同じ (→鯉にパンをやる美登鯉橋の硝子、佐原と再会した硝子など)
またね (→随所で登場します)
一緒に (→将也をケーキ作りに誘う硝子、花火大会の将也など)
なに? (→硝子は人差し指をゆっくり左右に振ります)
あいさつ (→夏休みに将也と映画に行く前の硝子、その後の手話教室も)
帰る (→硝子が花火大会でひとり先に帰ると言い出すときに使います)
勉強 (→美登鯉橋の将也、花火大会の硝子など)
約束 (→夜の美登鯉橋の硝子。クライマックス・シーンのあの手話です)
おはよう (→「朝」+「あいさつ」。文化祭での校門の硝子)


川に飛び込んだ硝子、それを追う将也: 美登鯉橋 MAP02f:id:los_endos:20161018184934p:plain
(↑)水から上がった直後の将也と硝子。筆談帳を大事に抱えてぺこりとお辞儀をする硝子。

手話で「またね」と将也に挨拶して去っていく硝子。しかし硝子の進んでいく先には実は出口はありません・・・(笑)。
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(上)硝子の進む先はこのように道が途切れています。

【考察メモ】
なぜ硝子は、嫌な思い出が詰まっているはずの筆談帳を自ら水面に飛び込んでまで取り戻そうとしたのか。その理由については映画で直接語られていません。実は原作でも「一度」「諦めたけど」「あなたが拾ってくれたから」と謎めいた言葉を返すのみで、硝子の本心を知るにはやや読み込みが必要です。実は先の【考察メモ】で脚本からカットしたことの問題を指摘しておいた「硝子が自らの手で筆談帳を捨て去った」という描写がここにも繋がってきます。原作第2巻の記事で私が書いた文章を以下に引用しておきます。

硝子が「一度」「諦めた」のは筆談ノートを探すというようなことではなく、「このノートを通してみんなと仲良くなりたい」という想いそのものを「諦めた」のです。筆談ノートを水に沈めることは、ここでは人とのつながりを断念することの隠喩です。彼女は「みんなと仲良くなる」「友達になる」「人とつながる」ことを自ら諦めてしまったのです。このことは硝子に大きな絶望感を与え、ついには「死にたい」(第6巻P.52)と思うほどに彼女を追いつめてしまいます。しかしそのノートを他ならぬ将也が拾っていたことを知った硝子は、そこに人と人とが繋がりあえる一縷の希望を見たのかもしれません。だからこそ小学校のあの日のように再び水の中に投げ込まれてしまった筆談ノート(=将也が拾ってくれたことで「人とのつながり」の可能性を取り戻したノート)を今度こそ失いたくないという想いで自ら飛び込んだのでしょう。この時、ノートは筆談帳という意味合いを越え、復活と再生を象徴するイコンへと転じています。"


Part.1の記事を締めるに当たって、映画『聲の形』 のロゴについて解説しておきます。f:id:los_endos:20161023191530p:plain
上述の「シクラメンの花」の【考察メモ】内で、ピンクは硝子、ブルーは将也のイメージカラーだと書きました。そのことを念頭に置いた上でこの日本語タイトルのロゴデザインを見ると、二人のイメージカラーがしっかり描きこまれていることに気づきます(ただし滲みを伴って)。それだけではありません。「聲」の字を構成する部首である「耳」の向かって左側が赤く滲んでいるのは、硝子の右耳につけられた傷と流れる血を表わしているように私には見えます。


→Part.2の記事へ続きます。

映画『聲の形』舞台MAP

当記事に掲載した『聲の形』、および映画『聲の形』の画像および台詞は、著作権法32条に定める研究その他の目的として行われる引用であり、著作権は全て、©大今良時講談社映画聲の形製作委員会に帰属します。

 
(2016/10/27 記)

*1:2016年10月22日時点で18回鑑賞しているので、それほど的外れの写真にはなっていないはずです。

*2:2016年10月8日~10日にかけて大垣・養老・岐阜を再取材しました。

*3:TVシリーズというステップボードなしのいきなりの映画化は、山田尚子監督のみならず京都アニメーションにとっても初の試みであり、確固たる人気原作であるとはいえ、TVシリーズという固定客がいない状況での映画化は大きな賭けだったはずです。これが3本目の映画となる山田尚子監督の「映画監督」としての真価を問われる勝負作でしたが、それは見事な結果となって返ってきました。2016/9/17(土)に公開された映画『聲の形』は10/23(日)までの累計で動員146万4305人、興収19億1345万1500円となり、『映画けいおん!』の持っていた19.0億の興行収入記録を抜いて、ついに京都アニメーション史上最大のヒット映画となりました。『映画けいおん!』は2011/12/3(土)の公開後、3月末まで4ヶ月近いロングランを続けた後も、全国各地で新たに上映を開始する劇場が後を絶たず、7月のイオンシネマ久御山での上映を最後に約7ヶ月におよぶ長期間の上映となりました。その上での19億円なので、その記録をわずか1ヶ月弱で塗り替えてしまった映画『聲の形』の勢いがいかに凄いかよく分かります。

*4:将也の姉の夫、ブラジル人のペドロが将也を除く唯一の男性ですが、彼は本編中は本国に帰っていて不在です。

*5:垂直方向への落下や下降のモチーフについては原作版の探訪記事内の随所で触れていますので、関心のある方は参照してください。映画版ではこれに連動する形で水平方向への拡散・移動のイメージが追加されたことで、より立体的で強靭な映像表現を獲得しています。

*6:シンフォニアは別名「3声のインベンション」と呼ばれることもあります。

*7:牛尾憲輔さんが手掛けたサントラCDにこれらの楽曲は収録されています。タイトルはすべて「Inv」(インベンションの略称)で全部で10曲。アップライトピアノの中にマイクを突っ込んで録ったという、深海の底で揺らめくような、あるいは頭の中に鳴り渡るような深い響きは、美しい音響彫刻のようでありながら、一方でどこかいびつな美しさを持っていて、さながら「ピアノの内臓」を見ているかのようです。

*8:アバンとラストで聴こえる心臓の鼓動の音は、牛尾憲輔さんのサントラの楽曲(O.S.T.「tre」,「lit(var)」)にはありません。これは映画のSE(サウンド・エフェクト)です。

*9:この英題は原作に付けられているタイトルと同じなのですが、元々は原作の海外翻訳版と同じ「a silent voice」が映画版の英題でした。その痕跡は京都アニメーションで予約発売された映画前売券の特典「西屋太志 自選総作監修正集」の表紙などに残っています。恐らくクランクアップ間際になって変更されたのでしょうが、その事情はよく分かりません。f:id:los_endos:20161017172210p:plain

*10:大垣コロナシネマワールドの舞台挨拶で山田尚子監督がアクアウォークでロケハンしたと発言されています。