TVアニメ『氷菓』等の原作でお馴染のミステリ作家「米澤穂信」さんの講演会が、2012年11月4日(日)に一橋大学の「第43回一橋祭」講演会企画として開催されました。
一橋大学の東キャンパス奥に2号館はあります。
手作りの看板がこのように立て掛けられていました。
会場は東キャンパス2号館の2301号教室。ゆうに370名を越える人数を収容できる大教室(正確には378人)ですが、講演開始時刻の15分前には早くも満席になって立ち見が出るほどの盛況ぶり。客層は米澤さんの作風を反映してか男女が半々程度の比率で、やはり大学生くらいの年齢の方が目立ちました。中にはかなり年配の方や小さな子供連れの家族もいたりして、米澤作品の幅広い人気のほどが窺えます。なお同日午前中には、同じ教室でアニメ音響監督の鶴岡陽太さんによる講演会があり、『けいおん!』『涼宮ハルヒの憂鬱』『氷菓』などの京アニ作品のみならず『化物語』や『魔法少女まどか☆マギカ』に至るまで、収録時の貴重で興味深いお話を聞くことが出来ました。こちらについては既に詳細なレポートが発表されていますので併せてご参照下さい(→「超記憶術先生ブログ:【学園祭】鶴岡陽太音響監督講演会レポート!」)。
講演13分前の2301号室の様子。既に満席で立ち見が出始めていました。
本日の2301号室午前の部はアニメ音響監督の鶴岡陽太氏の講演、午後の部が米澤穂信さんでした。なんという豪華組み合わせ!
開演時刻の13:40となりました。初めに社会学部4年生の司会の男性から、「神山高校の七不思議」の向こうを張った「一橋大学の七不思議」の紹介(内、4つ)という前フリがあった後、いよいよ米澤さんの登壇です。照明が落とされ、正面に向かって左側の扉からスポットライトを浴びて登場する米澤さん。遠目には黒か濃紺に見えるスーツに赤地でストライプの入ったネクタイといういでたちで、檀上に立つ姿はミステリ作家というよりは大学講師のようです。マイクを握って「喋りは本業ではないので…」と断った上で語り始めた米澤さん。しかしその知的で落ち着いた語り口は丁寧で分かりやすく、実際に大学の講義に参加しているような気分にさせられました。簡単な自己紹介の後、本日のテーマ「日常の中のミステリ」の講演が始まりました。
ミステリ作家:米澤穂信氏
ここからは議事録形式で講演内容を紹介していくことにします。
講演を始める前に米澤さんは、途中で言及する作家名は便宜上フルネームで呼び捨てにさせて下さいと断わりを入れられましたので、以下の議事録も同じ流儀とさせて頂きます*1。
また講演の内容に関してはミステリの前提知識がないと意味を掴みづらい箇所が幾つかありますので、それらについては適宜私の方で注釈を入れます。興味のある方はご参照下さい。小説作品のタイトルは全て『』で括っています。なお、物語のネタばれに類するような発言は一切ありませんでしたので、米澤さんの諸作を未読の方でも安心してお読みください。
講演中の撮影・録画・録音は禁止なので、写真はありません。以下の文章はすべて私が現地で採録したメモから書き起こしたものです。そのため、実際に米澤さんが発言された言葉遣いとは若干異なっている箇所がありますし、発言の意味が不明瞭な箇所は私が補足している部分もあります。大意を損なわないよう留意したつもりですが、あらかじめその点はご了承下さい。
■講演「日常の中のミステリ」:米澤穂信
2012/11/4(日)13:50~14:30
於:一橋大学 東キャンパス2号館2301号教室
ミステリの起源
・自分の小説が紹介される際、「人の死なないミステリ」と言われた時は最初は内心驚いた。殺人の起こらないミステリがそれほど特別なものという印象がなかったからだ。
・ミステリの起源は19世紀半ばに発表されたエドガー・アラン・ポー*2の『モルグ街の殺人』(1841年)が始まりとされている。
・ポーはミステリ作家ではなかった。彼の書いた小説の中でミステリと呼べるのは3~4篇であり、彼の生み出した探偵(オーギュスト・)デュパンが活躍するのは『モルグ街の殺人』『マリー・ロジェの謎』『盗まれた手紙』のわずか3篇のみである。それでもポーは推理小説の元祖とみなされている。そしてポーの3作目『盗まれた手紙』は人の死なないミステリだった(=盗難事件)。つまりミステリはその黎明期の段階で既に「人の死なないミステリ」というジャンルを初めから擁していたのだ。私はこれを"早すぎた先例"と呼んでいる。そしてポー以降、ミステリがミステリとして本格的に花開くまでにはもう少し期間が開く。
英国での発展
・「ミステリが生まれるための4要件」というものがある*3。1.都市文明があること 2.警察があること 3.新聞および連載小説があること 4.科学的思考が普及していること
・英国で1850年に週休二日制が導入されて土曜日が休みになると、人々の暮らしに少しばかり余裕が出来て読書の習慣が生まれた。ちょうど駅構内に本屋ができるようになった時期でもあり、公共図書館の発展とともに1850年前後を境として一般市民が読書を楽しむ機会は大幅に増えることになった。1860年(?)になるとコナン・ドイルがシャーロック・ホームズ物の連載を開始する*4。
・ミステリは英国で生まれたとされている*5。なぜ英国で発展したのかという理由については幾つかの説があって、その内のひとつに、時代的にスポーツが文化として普及し始めた時期であったため、スポーツマン・シップやフェアネスの概念が行き届いていたからだというものがある。
・コナン・ドイルが残したホームズ物の56編*6の内、犯罪ではない11篇を除いた作品を読んでみると、人が死ぬということが必須要件になっていないことがよく分かる*7。
・ホームズ物の短編の中では『唇のねじれた男』が特に好きで、ホームズが悩みに悩んだ挙句、結論が見えた瞬間に「ああ、なんて自分は馬鹿だったのだろう」と嘆くシーンが子供心に大好きだった*8。
人が死ぬミステリ/死なないミステリ
・では一体いつから、ミステリは「人が死ぬもの」となったのか?
・これについては1928年に米国のミステリ作家ヴァン・ダインが発表した「ヴァン・ダインの二十則」の中にある「ミステリは人が死ななければならない」という一文が大きく影響を与えていると言われている。ただしこの一文は抄訳であって全文はもっと味のある文章である。曰く「長編小説には死体が絶対に必要である。殺人より軽い犯罪では読者の興味を持続できない」。
・ヴァン・ダインの提唱するこの法則は、言い換えるなら「誰も死なない長編小説など退屈で読んでいられるか」という主張であるが、それはあんたがそう思ってるだけだろうという気持ちはある(笑)。しかし一方で私自身も"デコラティブな死"への興味はよく理解できるし好きでもある*9。
・同じ年に英国のロナルド・ノックスが発表した「ノックスの十戒」も有名なミステリの心得*10であるが、「二十則」も含めてこれらの法則が創作上の金科玉条のルールかというとそうではない。全てに則って書いても別に誉められるものではないし、全てを破ったからといって批判される訳でもない。大事なのはあくまで「フェアプレイ精神」である。*11。
・アントニー・バークリーの小説には、ミステリを読み過ぎて世の中の出来事の何でもかんでもをミステリにしたがるような人物が登場するが、そういった行き過ぎた傾向への皮肉といった側面もあった*12。
・またミステリにおいて「人が死ぬ」作品が主流となっていった背景には社会学的な解釈の余地もある。例えば笠井潔の論考はその辺りを詳細に分析している*13。
・やがて「人の死なないミステリ」は少数派として追いやられてしまった。しかし全く無くなってしまった訳ではない。ポーの『盗まれた手紙』は「盗難もの」であったが、「暗号もの」や「誘拐もの」も人の死なないミステリのジャンルである。エド・マクベインの『キングの身代金』では死ぬ人はいてもそれが眼目ではない*14。天藤真の『大誘拐』も同じである*15。
ジャンルとしての「日常の謎」
・では今日、「人の死なないミステリ」として定着した感のある「日常の謎」と呼ばれるジャンルはいつ生まれたのか。一般的には北村薫のデビュー作『空飛ぶ馬』や『夜の蝉』を嚆矢とするとされている。特に『空飛ぶ馬』は北村薫のデビュー作でありながら、1989年の「このミステリーがすごい!」国内編部門の第2位に輝いたほどの高い評価を受けた(ちなみにこの年の第1位は原寮の『私が殺した少女』)。
・北村薫はエラリー・クイーンやディクソン・カーの愛好家として知られている。そのようなミステリ黄金期の本格推理小説を愛好する人が、なぜ死者の出ない「日常の謎」を題材にした作品を書き始めたのか。一説によると坂口安吾の短編『アンゴウ』へのオマージュとも言われている。いずれにせよ、殺人がなくても優れたミステリは書けるということが立証され、評価されたのである。
・「日常の謎」というサブジャンルの命名者は、東京創元社の前の社長の戸川さん*16ではないかという説があるが定かではない。
・「日常の謎」では確かに人は死なないが、「密室もの」などのサブジャンルと複合している場合もあるので、決して他のサブジャンルと排他的な関係にある訳ではない。
・ミステリに殺人は必要ではなかったのではないか?今、こうして「日常の謎」を描いたミステリが定着して広く読まれるようになったのはなぜか?私はこれは北村薫がその作品の力でねじ伏せたからだと思っている。無名の新人が主流ではない変な作品を書いた・・・では済ませなかった作家としての力量があったからだと信じている。
・私は以前、書店に勤めていたことがある。書店には自分の知るようなミステリ愛好家とは似ても似つかない人が沢山やってくる。別に本好きではないし、ましてミステリなど見向きもしないような人達だ。そのことにカルチャー・ショックを受けたことがある*17。
ミステリ空間
・私は、謎が解かれるために作られる物語世界のことを「ミステリ空間」と呼んでいる。
・新保博久*18によれば、1930年代頃のミステリでは殺される人には「役割」があったとしている。根っからの悪人であるとか、処罰されたり殺されるに足るだけの悪業を働いた人という意味である。それが現代になるほど、善良で罪を犯した訳でもないような人が無意味な死や非業の死を遂げるようになり、その死に意味を与えるべくデコラティブな装飾や死を玩弄するような傾向が強くなってきた。しかしそれはジャンルの愛好家の中でしか通用しない内向きの姿勢であって、外部の人が見れば引いてしまう要素でもある。
・子供の頃にH.G.ウェルズの『宇宙戦争』を読んだ時、そこで死んでいった人たちが可哀想で仕方なかった。それが悲しくて、もし彼らが生きていたらという設定で小説を書き始めた。それ以来、人の死を扱うより扱わない「ミステリ空間」を書き始めたのだ*19。
技術的な諸問題
・「日常の謎」には人の死は描かれない。そんな小説がなぜ(ヴァン・ダインの唱える作法に逆らって)300ページにも及ぶような長編小説のジャンルとして成立しうるのか?
・日常の謎を描いた短編小説なら昔からあった。ではその短編を繋ぎ合わせて連作集にすればいいじゃないかという発想が生まれた。その最後の一篇で全体のまとめを書けば、それで長編小説のボリュームになる。この手法は創元推理文庫に多い。「日常の謎」というサブジャンルは連作短編集という形態に適している。私は、この発想はミステリ小説の技術革新であると思っている。
小説としての目的
・古典部シリーズの『心あたりのある者は』(『遠まわりする雛』収載)や、小市民シリーズの『おいしいココアの作り方』(『春季限定いちごタルト事件』収載)などは、どういう目的であのような物語を作ったのかと聞かれることが多い。
・人が死ぬミステリでも、物語の中で人の成長を描くことは出来るが、そんなことやってる前に警察呼べよと(笑)思ってしまう。人が死んでいるのにそれが二の次になってしまっては渇いた小説になってしまう*20。勿論、「人が死ぬ」ミステリにおいても、笠井潔の作品のように殺人という行為を通して哲学的な思索を展開する小説もあるので一概には否定できない。
・しかし「日常の謎」というジャンルであれば、登場人物の性格や人物像を掘り下げるためにミステリを書くことが出来る。謎解きという行為に登場人物を奉仕させるのではなく、登場人物を描くために謎を提示するというアプローチだ。私は謎が解かれた瞬間に、登場人物の未来に光が差してくるような物語を書きたい。
犯罪を解く意志
・犯意がなくてもミステリは成立するか?という話である。例えば『シェイク・ハーフ』(『夏季限定トロピカルパフェ事件』収載)という作品では、受け取ったメモが読めないことから謎が生まれるという話を書いた。これはダイイング・メッセージ*21の変形と言える。
・犯意はあった方が望ましいと考える。犯罪を起こす意志が不在であると、なぜ謎を解くのかという必然性が出にくく物語が軽みを帯びてしまうからだ。
・しかし、軽みのある作品が悪い訳ではない。連作短編だとクライマックスの直前に、メインディッシュの緊張感を和らげる前菜のような位置づけでそういった作品を配置することはある。『ふたりの距離の概算』の『とても素敵なお店』という章はそれに該当する。
題材
・どこから着想を得ているか?であるが、これには3つのパターンがある。
・1つ目。思考によって組み立てる。これは純粋に力技で物語を組み立てていくパターンで、『For your eyes only』(『春季限定いちごタルト事件』収載)や、『ふたりの距離の概算』の『入部受付はこちら』の章などがそうだ。
・2つ目。実話を題材にする。『大罪を犯す』『正体見たり』(『遠まわりする雛』収載)はいずれも実話を元にしている。
・3つ目。自分が普通だと思っていたことが、実は他人にとっては全くそうでない場合。これはもうそのままネタに使う。『おいしいココアの作り方』(『春季限定いちごタルト事件』収載)がこの傾向の作品で、登場人物がずぼらだったために起こってしまった事件である。
・最近の実体験でもこんなことがあった。今年の角川書店の飲み会(忘年会?)で開催されたビンゴゲームで、司会者が檀上で番号を引いても引いても、いつまで経ってもビンゴになる人が出てこない。そばにいた賀東招二さん*22と「これはおかしいよね」と話していて、司会者が引いた番号を見ている内に、200番以下の番号が全く出ていないことに気付いた。会場の人数よりも大きい番号しか出ていなかったので誰もビンゴにならなかったのだ。後でビンゴ・マシーンの不具合だと分かって事なきを得たが、その説明をしたら「こういうところから謎を見つけていくんですね」と妙に感心されてしまった(笑)。
・それから、今日午前中にここで講演された音響監督の鶴岡陽太さんのスタジオへ音声収録の見学に招かれた時、声優さんが入っているガラス張りのブース内に掛かっている時計のすぐ下に"32"という数字が見えた。冬場なので気温ということはないだろうし、湿度だとしても声が命の声優さんの仕事現場で"32"は乾きすぎている。当然、日付でもない。一体"32"とは何の数字だろう?と不思議に思ってスタッフに聞いたところ、「あれは温度ですよ」と即答された。いや、ブースの中がそんなに暑い訳がないだろうと思って更に突っ込んで聞いてみたら、「あの時計の辺りにスポットライトが当たっているんですよ」という回答だった。この話は今後の小説のネタに使えそうだったが、今話してしまったのでもう使えない(笑)。
・・・ここまでが米澤さんの講演でした。終了時刻が14:30だったので、約40分と時間的には比較的短めでしたが、ミステリの起源に始まって英国での発展の経緯を辿りつつ、「日常の謎」というサブジャンルがどのように生まれどのように受容されていったのかを追いながら、同時にご自身の創作のアイデアや裏話を語るという大変密度の濃い内容でした。
■謎解きに挑戦してみよう
この後、参加者全員に実際に謎解きに挑戦してもらおうという企画があり、あらかじめ用意された小問題がプロジェクターで紹介されます(配布資料にも同じ小文が印刷されていました)。シンキング・タイムは3分*23。我こそはと手を挙げた3人の観客の方々にそれぞれ推理を披露していただきました。続いて【解決編】がプロジェクターで流されると、最初に発表した人が見事に正解であると分かって場内は拍手喝采です。この後、米澤さんの講評があったのですが、そこでも興味深いコメントがありましたので、以下紹介します。
・福井健太の『本格ミステリ鑑賞術』という著書の中には、ミステリという小説分野においては作家と読者との間に共犯関係が成立しており、そこでは両者が“暗黙の前提”を共有していると述べている。完璧なミステリはそういった相互理解の上で成り立つものである。
・今日はミステリの魅力を伝えられるように講演した。今やミステリの世界は百花繚乱である。昔の一般小説でも今の基準ならミステリと呼んでおかしくないような小説もある。つまりそれだけミステリの裾野が広がっているということだ。
・ミステリの基本は「フェアプレイ精神」である。ミステリを自分でも書いてみたいと思う人は是非挑戦してみてほしい。私もそういった作品を読んでみたい。
■質疑応答
さて、ここからはいよいよ観客の皆さんお待ちかねの質疑応答のコーナーです。
この時点で時刻は14:55。終了したのは15:25だったので実に30分にも及ぶ長時間のQ&Aタイムでした。質問数は全部で24にもなりました(同一質問者の連続質問もカウントの対象にしています)。
では順番に紹介します。
Q1:『冬季限定』の結末は決まっていますか?
A1:はい。決まっています。
Q2:刊行の日程は?
A2:それは決まっていません(笑)。決まったらお知らせします*24。
Q3:折木とえるはつき合っていますか?つき合う予定はありますか?イライラしますね(笑)。
A3:今後をお楽しみに(笑)。
Q4:米澤先生の作品の主人公はいつも影があると思うのですが、そういう人物を主人公にするのは何か理由があるのですか?
A4:青春小説を書く時に気をつけていることがあって、それは「成長」をテーマにしているということなんですね。影のない人は成長しないので主人公にはなりません。
Q5:(他の小説の主人公と違って)折木にあまり影がないのは、やはり先生のデビュー作だったからでしょうか?
A5:折木自身には克服すべきものはないんです。むしろ古典部シリーズの場合、それは千反田(える)の方にある。彼女は伯父の失踪という問題を抱えていました。そこに折木自身の話を入れるとダブルの主人公になってしまい、筋が二本になる。この点は小説として整理すべきところでした。
Q6:米澤先生が『氷菓』でデビューされた年に産まれた子供が、今『氷菓』を読んでいます。(古典部シリーズが完結する前に)折木の年齢を追い越すんじゃないかと心配です(笑)。
A6:追い越されないようにするには「そして10年後・・・」と入れておくという手があります(爆笑)。いえ、がんばります(笑)。
Q7:最近、注目されている作家はいますか?
A7:それについては、最近「CREA」という雑誌*25に少し書きましたので機会があればお読みになって下さい。それと河出文庫から久生十蘭*26の小説が続々と復刊されていて、今はそれが面白いですね。
Q8:私は『クドリャフカの順番』が好きなのですが、折木の姉(=供恵)の視点で話を書く予定はないのでしょうか?
A8:もし書くのであれば、古典部シリーズとは関係のないスピンオフになるでしょうね。供恵の存在は「機械仕掛けの神(=デウス・エクス・マキナ)」*27になっています。「ご都合主義」と言い換えてもいい。つまり特別な役割を与えられているので、古典部シリーズで彼女の一人称形式で書くのは無理なんです*28。
Q9:今後、古典部のメンバーが増える予定はありますか?
A9:『ふたりの距離の概算』で大日向を出しましたが・・・。(少し考え込んでから)・・・面白くなるように書きますとしか言いようがないですね(笑)。
Q10:『愚者のエンドロール』や『犬はどこだ』では、学内チャットやWebのログなどが登場します。今後、例えばユビキタスのような発達したネットワーク・テクノロジーをテーマにされるようなご予定はありますか?私の印象では、最近そういった題材を書かれなくなったように思えるのですが。
A10:ミステリには「情報小説」としての側面があるという指摘があります。FAXや電子レンジや最近ではインターネット。いずれもミステリの題材になります。しかし問題が2つあります。1つは"Dog Year"という言葉があるように、進展が速すぎるために数年後には古くなってしまうことへの躊躇いがあること。そしてもう1つは、私があまり技術面に詳しくないということです。なにしろいまだにADSLなので(笑)。今普及しているインターネットをごくナチュラルな形でなら書けると思います。
Q11:今までで一番すごいと思った作品、一番感銘を受けた作品を教えて下さい。
A11:難しい質問ですね・・・・・・。これは他にも書いたことですが、小説を書く上でインパクトを受けた小説は、北村薫の『六の宮の姫君』だったことは間違いないです。
Q12:ご自身の人間関係を小説に反映していることはありますか?
A12:学生時代は、練習場で部活に励む毎日だったので、当時のことが自分の小説に出てきたことは一度もないと思います。
Q13:いわゆる「館もの」「孤島もの」といったジャンルのミステリを書く予定はありますか?
Q13:そういった大掛かりなトリックの復権を目指したのが、綾辻行人らに代表される「新本格派」でした。私は新本格の直撃世代なので、当然影響を受けています。その影響の下に『インシテミル』を書きました。それで自分としては一段落しています。今は新作の構想はありませんが、好きなジャンルなのでまたどこかで関わってくることもあるかもしれません。
Q14:千反田家のような土着性に注目されているようですが?
A14:注目しているし勉強したい分野です。
Q15:『折れた竜骨』はRPGの『タクティクスオウガ』を参考にされたのでしょうか?
A15:参考にしてはいません。中世時代の社会を描こうとしただけです。『タクティクスオウガ』は好きですが、封建(時代)の(中世)後期なので世代が違いますね。
Q16:主人公の名前や作品のタイトルへのこだわりはありますか?
A16:(少し詰まってから)・・・割と苗字が好きです。昔から色々な苗字を知るのが好きでした。それも一度覚えたらルビをつけなくても読めるようなもの。名前については、親は一体どういう思いでつけたのかとか想像します。特徴的な漢字を使っていたりすると尚更です。小説のタイトルは様々ですね。これしか思いつかなかったという場合もあるし、仮題がそのまま定着したものもある。編集者がつけたこともあります。
Q17:『ボトルネック』や『追想五断章』のようなリドル・ストーリー*29というか、ちょっと変わったテーマの作品はどのように着想されたのですか?
A17:『追想』は雑談の中から生まれました。『ボトルネック』は・・・ちょっと覚えていないですね。自動車学校に通っていた時、近くの公園を散歩していて思いついたような気がしますが、どういった心の動きがあったかまでは覚えていません。
Q18:『氷菓』がアニメ化されるに当たって、制作側(=京都アニメーション)に何か要望されたことはありますか?
A18:アニメに関しては、自分が関わったのは制作前のロケハンの取材で道案内するところまでだったと思います。その後、完成した第1話を見た時、折木がどこかで画鋲を入手してこなければいけないシーンがあったのですが、そこをどうするのだろうと思って見ていると、背景美術で後ろの掲示物がちゃんと途中から斜めに傾いでいたので、もう何も言うことはないと思って以後は安心して見ていました*30。
Q19:アニメと原作とでは、例えば『手作りチョコレート事件』『正体見たり』『愚者のエンドロール』『クドリャフカの順番』など、結末の印象が少し違うものがあります。これは米澤さんから要望されたのでしょうか?
A19:制作が始まって以後は全て(京アニに)お任せしています。これはなぜかと言うと、(監督の)武本さんにしても(シリーズ構成の)賀東さんにしても、一旦お渡ししたものに対して後から口を挟むというのは人の領分を侵すものだからです。今回のアニメ化は原作者との協働というスタンスではなかったので一切をお任せすることにしました。なお念のため申し添えておきますと、原作者である私が加わらなかったのは「小説を書いているので」とお断りしたからであって、入りたかったけど入れてもらえなかった訳ではありません(笑)。
※補足:実はこのQ19の質問は私と同行していたTwitterのフォロワーさんからの質問でした。以前からこの方とは何度も意見交換しており、この質問は私自身かねがね聞いてみたいと思っていた内容でした。Good Job!
Q20:私は韓国人でこれから2年間軍隊へ行くことになるのですが、帰ってきた頃には古典部の新作が読めるのでしょうか?(笑)それと古典部シリーズがもし大学生になっても続くようなら、ぜひ一橋大学をモデルにして下さい(笑)。
A20:2年後はまだ完結していないです。最速でも次刊では完結しません。2年後、"新しいもの"を読んでもらえるよう頑張ります。古典部シリーズは高校生で終わりと思っていましたが、最近少し考えが変わっています。一橋大学になるかどうかは何とも言えません(笑)。
Q21:『ボトルネック』にしても古典部シリーズにしても苦い結末が多いように思います。なぜですか?
A21:絶望的と言うほどではないし、何もかもダメな訳でもないという、その辺りの間(あわい)を書いていきたいと常々思っています。それが結末に表れているのだろうと思います。
Q22:『ボトルネック』は主人公に救いはなかったのでしょうか?
A22:あの小説はリドル・ストーリー*31なので、今この場で説明するのは(ネタばれになるので)小説に対して良くありません。従って詳細は語れませんが、小説内に色々とヒントは散りばめられています。明示はしていませんが暗示はしていますので、あらためて読んでみて下さい。
Q23:僕は一橋大の近くの東京農工大の学生なんですが、もし折木が一橋大に入るのなら、千反田の方は農工大にぜひお願いします!(爆笑)
A23:検討します(笑)。
Q24:『ふたりの距離の概算』の大日向の携帯の待受画面は何だったのでしょうか?
A24:仲良しが好きなので、仲良しの子の画像でも入れてるんじゃないですかね?(笑)
・・・30分間に及ぶ質疑応答はこの質問をもって終了しました。
最後に今日の締め括りということで米澤さんからまとめの言葉を頂きました。
「本が読まれなくなったと言われ、出版業界全体が冷え込んで厳しい中にあって、こんなにも沢山の人に集まって頂いて大変光栄です。まさかこの大教室が埋まるとは思ってもいませんでした。このような場でミステリの話が出来て本当に幸せです。これを励みにもっと面白いミステリを書いていきたいと思います。今日はありがとうございました。」
スタッフの女性から花束を贈呈された米澤さんは、万雷の拍手の中、最初に入って来られた正面左側の扉から退出されました。
こうして1時間50分に及ぶ講演会は盛況の内に終了しました。
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米澤穂信さんは、雑誌の写真で拝見した通りの飾り気のない容姿と人柄で、終始落ち着いた語り口はとても知的なものでした。しかし一方で、質疑応答コーナーでの機知に富んだ当意即妙の切り返しは見事なもので、喋りは本業ではないと言いつつ、実は結構、場馴れされているのかな?と思いました。
今回の講演会の中で個人的に印象的だったのは、「ノックスの十戒」「ヴァン・ダインの二十則」に触れて「これらの法則が創作上の金科玉条のルールかというとそうではない。(中略)大事なのはあくまで「フェアプレイ精神」である」と断言されたくだりです。これはまさに我が意を得たりと膝を打ったところでした。先の文中でも触れましたが、アニメ『氷菓』第8話の考察記事の中で私は、入須冬実が持ち出した「十戒」「二十則」そしてチャンドラーの「九命題」に共通しているのは唯一つ「読者に対してフェアに情報を提供している」という点のみであって、(本郷の書いた)脚本内に謎を解く手掛かりが明白に書かれていることを強調するための暗黙のメッセージだったのではないかという説を提示しておきました。その裏付けが、原作者である米澤さんご本人の説明から汲み取れたことは大きな収穫だったと思っています。
それからQ19の質問に対する米澤さんの回答で、アニメ第7話『正体見たり』や第11話『愚者のエンドロール』、第21話『手作りチョコレート事件』のラストが原作と異なるのは、アニメ制作側(=京都アニメーション)のアイデアであることが分かりました。TV放映終了を前にして私は「原作とのストーリーの異動箇所を整理してみたい。そこにアニメ版の演出意図と武本監督が作品に込めた思いが見えてくるはずだから。なぜあの場面をああしたのか?とか改変の意図がよく分からなくて掴みかねている箇所が幾つかある。」とtweetしたことがあります。この時点では原作者の意向がどこまで反映されているのか分からなかったので、そこから踏み込むことはせずペンディングにしていましたが、今ならもう少し絞り込んで考察できそうです。
あと『氷菓』のアニメ化については、米澤さんの制作側(=京アニ)への全幅の信頼が感じられました。原作と映像作品とは別物と割り切る作家は多いと思いますが、アニメ『氷菓』最終話放映直前にTwitterで寄せられた米澤さん自身のコメントは「アニメ『氷菓』は今夜から順次最終回。アニメスタッフの皆さんの創作性を発揮し、かつ小説から残すべきを残し補うべきを補う、良い脚本にしていただきました。名残惜しいですね。」というものでした。原作者の期待に十分応えた映像化と言ってよく、米澤さんと京都アニメーション(およびシリーズ構成の賀東招二さん)との関係が最後まで良好だったことが窺えます。
願わくば古典部シリーズの続編の早期刊行を。いずれはアニメ化の第2弾を期待したいところですね。
(2012/11/7 記)
*1:途中、ミステリ評論家の新保博久氏のことを「新保さん」と呼んでしまうハプニングがありました。
*2:「江戸川乱歩」と聞き違えた人もいたかもしれませんが、ここは勿論、ミステリの始祖ポーのことです。
*3:この説の提唱者の名前は記録し損ねたので不明です。
*4:ここで米澤さんは確かに1860年と仰ったのですが、コナン・ドイルが『緋色の研究』を執筆したのは1886年とされています。また新聞連載のような形態ではなく出版社への持ち込みだったので、これは事実誤認ではないかと思われます。
*5:先述したミステリの始祖ポーは米国人ですが、現代に通じるミステリの雛形となる叙述形式やトリックがひとつの完成型を見たのは英国でした。1920~30年代は俗に"ミステリ黄金時代"と呼ばれ、英国から続々とミステリ作家が登場し代表作を生み出していた時期です。
*6:正確には4つの長編と56の短編です。
*7:『愚者のエンドロール』に関わる重要なポイントですが、ネタばれになるのでこれ以上は言及しません。
*8:延原謙訳の『唇の捩れた男』(『シャーロック・ホームズの冒険』収載)には「・・・ワトスン君、いま君の鼻先にいるのは、ヨーロッパ一のとびきりの大馬鹿者だという気がするよ、僕は。ここからロンドンのチャリング・クロスまでひと思いにけとばされたって、文句の言えないような大馬鹿だったんだ。」と描写されています。
*9:"デコラティブな死"とは、無意味で不条理な「死」や「死体」に過剰な装飾や演出を施し、そこに特別な"意味"を持たせることです。その時、死者は無意味な「死」という不条理から脱却し、特権的な地位と栄誉を獲得するに至る。「死」に"意味"を付与するというこのテーマは、後に言及される笠井潔の一連の論考が主要な参照先です。
*10:「十戒」には"人が死ななければならない"といった類の殺人を必須とするようなルールはありません。
*11:この点について私は以前、考察記事を書いたことがあります。ご興味のある方はこちらをご参照下さい(→【小論】:『氷菓』第8話:「十戒」「二十則」に「九命題」が加えられている理由に関する一考察)
*12:バークリーの代表作が『毒入りチョコレート事件』です。米澤さんは『毒入り~』へのオマージュとして、タイトルを借用した『手作りチョコレート事件』(『遠まわりする雛』収載)を書き、また『愚者のエンドロール』では素人探偵の推理合戦を描いています。
*13:ミステリ作家・評論家の笠井潔著『探偵小説論序説』を参照。先に紹介した 拙ブログ記事の注釈*3で笠井説に少しだけ触れています。
*14:書棚を探したのですが見つからなかったのでうろ覚えです、とのこと。
*15:先日、米澤さんがブログで公開された「折木の本棚.txt」の中にも『大誘拐』はチョイスされています。
*16:戸川安宣氏のこと。米澤さんは気付いていらっしゃらなかったのですが、この時は「戸川さん」と敬称付きでした。
*17:Wikipediaには「大学卒業後も「2年間だけ小説の夢にチャレンジしたい」と両親を説得して、岐阜県高山市で書店員をしながら」執筆を続けたとありますので、恐らくその当時のことだろうと思います。
*18:ミステリ評論家。米澤さんは、思わず「新保さん」と敬称付きで言ってしまった後、「敬称略と言っておきながらスミマセン」とフルネームで言い直しされました。
*19:この辺りのメンタリティは『愚者のエンドロール』のラストで千反田えるが吐露する心情に近いものだと思いました。
*20:登場人物が人の死を客観視しているような人間味に乏しい世界になるという意味だと理解しました。
*21:被害者が死の直前に犯人の名前を書き残すメッセージのこと。殆どのミステリではダイイング・メッセージは判読困難であったり理解しがたい内容になっていて、そこから謎解きが始まるのが通例。
*23:この間、米澤さんも客席一列目に座って一緒に考えていらっしゃいます
*24:Q1とQ2は、現在『秋季限定栗きんとん事件』まで刊行されている<小市民シリーズ>の続刊がなかなか出版されないので、進捗状況について尋ねたものです。ちなみに次作のタイトルは『冬期限定生チョコレート事件(仮)』との噂です・・・。
*25:文藝春秋社の女性向けファッション雑誌。2012年11月号のコラム「読書月記」に寄稿されています。
*26:ひさお じゅうらん。戦前から昭和30年頃まで活躍した小説家です(昭和32年逝去)。探偵小説や捕物帖だけに限らず、様々なジャンルを手掛けており、その華麗な文体から名文家としても知られ「小説の魔術師」との異名を取りました。
*27:混乱して錯綜した物語を強制的に解決してしまう神のごとき存在という理解で大体OKかと思います。詳しくはこの辺りの解説を参照して下さい。
*28:古典部シリーズにおける折木供恵の存在が「機械仕掛けの神」であるという米澤さんの発言は極めて示唆的です。アニメ版の『氷菓』ではシリーズを通して一度たりとも彼女の顔が見えないという事実も併せて記憶しておくべきでしょう。
*29:この言葉は後にQ22でも出てきますので、そちらで解説します。
*30:アニメ『氷菓』第1話で「女郎蜘蛛の会」の勧誘メモを発見するシーンです。原作は『やるべきことなら手短に』(『遠まわりする雛』収載)。米澤さんの発言は、アニメが原作の意図を正確に読み取って映像化していると分かったので、安心してすべてをお任せすることが出来たという意味合いでしょう。続くQ19に対する回答でも同様のことを述べられています。
*31:"Riddle Story"のこと。物語に登場した「謎」に対して明確な答えを出さないままで終わってしまう小説を指す。