【舞台探訪】『聲の形』(原作):第1巻

【注意!】当記事では原作の内容の詳細について触れることになります。原作未読の方でネタばれを避けたい方はここから先へは進まないでください。

本稿は大今良時*1さんの漫画『聲の形』の舞台探訪の記事です。

聲の形(1) (講談社コミックス)

聲の形(1) (講談社コミックス)

 

→本稿以降の記事はこちらです。
・【舞台探訪】『聲の形』(原作):第2巻
・【舞台探訪】『聲の形』(原作):第3巻
・【舞台探訪】『聲の形』(原作):第4巻
・【舞台探訪】『聲の形』(原作):第5巻
・【舞台探訪】『聲の形』(原作):第6巻
・【舞台探訪】『聲の形』(原作):第7巻
 
本作は2013~2014年まで週刊少年マガジンにて連載されました。コミックスは講談社から全7巻が刊行されています。同作は作者の大今さんがメジャーデビュー前の2008年に週刊少年マガジン編集部に持ち込んだ作品が原型です。その読み切り版の『聲の形』は、第80回週刊少年マガジン新人漫画賞を受賞したものの、当時の編集部の判断で掲載を見送り。その後、デビュー作『マルドゥック・スクランブル』の連載終了後に作者自身の手によってリライトされた『聲の形』が掲載されて大きな反響を巻き起こしたことがきっかけとなり、満を持して週刊連載に至ったという異例の作品です*2


『聲の形』は「聴覚障害」と「いじめ」という重い題材が物語の根底にあります。そのセンシティブな内容ゆえに作品を掲載するに当たって、出版社は慎重に慎重を重ねて各方面との調整を行ったようです*3

そのような経緯のもとに連載された同作でしたが、その反響は大きく、後に宝島社の「このマンガがすごい!2015[オトコ編]」の第1位、「2014年コミックナタリー大賞」の第1位、「第19回手塚治虫文化賞」の新生賞を受賞するという数々の栄誉に浴しました。それはこの作品が人の心の負の面だけではなくその向こう側にある希望と救済を真摯に描いており、その誠実さが読む人の心に強い感銘を与えたからに他なりません。

既報の通り、同作は京都アニメーションの山田尚子監督によって劇場版アニメーション映画として制作されることになりました(2016年9月17日公開)。

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(上)週刊少年マガジン2015年第46号にて発表された速報。


京都アニメーションがテレビアニメやOVAシリーズというステップボードなしでいきなり映画を制作するのは今回が初めてのケースです。『映画 けいおん!』『たまこラブストーリー』で映画監督としての評価を高めた山田尚子監督への全幅の信頼の証でしょう。思春期の少年少女達の心の機微を赤裸々に、時に残酷なまでに描き出す衝撃的な内容は、多幸感に満ちた山田尚子監督の従来の作風を一新するような描写で溢れることは必定であり、全7巻ある『聲の形』を限られた尺の中でどのように描き切るのかも含めて今から期待で胸が躍ります。


罪と罰、悔恨と贖い、赦しと祈り、そして再生。
過去と向き合い、その呪縛から解放されるとき、人は変わることができる。
可能性のある未来と生きる希望を掴むことができる。

それが『聲の形』という作品の主題なのです。

第1巻について(その1)

『聲の形』第1巻では、主人公である石田将也(いしだ・しょうや)の小学生時代の思い出が語られます。悪ガキを絵に描いたような将也。退屈な学校生活に絶えず刺激を求めていた彼の前に現われた転校生、耳の聞こえない聾者の西宮硝子(にしみや・しょうこ)。

初めは硝子とのコミュニケーションの難しさを「仕方の無いこと」だと誰もが割り切っていたクラスの中で、ある日を境として硝子への執拗な「いじめ」が始まります。その中心にいたのが将也。それは「からかい」や「いじり」の度を遥かに越した容赦のないものでした・・・。

 

■舞台探訪 『聲の形』(原作):第1巻*4
※各シーンの場所情報はGoogle Mapにまとめてあります。各々の場所を確認されたい方は、当記事末尾に掲載しているMAPを拡大してご覧下さい。

 

当ブログで舞台探訪の記事を掲載するのは久しぶりのこと*5ですが、今回も以前の記事と同様、舞台となった背景の写真とMAPの掲載に加えて、現地調査の過程で浮かび上がってきた様々な事実関係を通じて作品の本質に迫っていくという「作品解題」に近いアプローチを取ってみようと思います。

取材は2015年11月以降、計10回以上に渡ってメインの舞台である大垣を中心に岐阜、養老、長島を断続的に訪問しました*6。そこでひとつ分かったことは、大今さんの描く背景は実際の風景を写真どおり忠実に描きこむタイプではなく、意図的というよりむしろ恣意的に描きやすいよう舞台の改変や移動を行う傾向が強ということです。実際、同じアングルで写真を撮ることは不可能であったり、各パーツの配置が大きくアレンジされていたり、原作ではすぐ近くにあるかのように描かれている場所が現実にはまったく違う場所であったり・・・といったようなことがこの作品には比較的多いことに気づかされました(その典型例が将也の通う高校です。実は大垣市どころか岐阜県内ですらありません。この点については第7巻の記事で詳述します)。

従って、例えば私が『言の葉の庭』の記事で試みたように、描写された背景と、アングルやポジションを緻密に合わせて撮った写真から見えてくる<両者のズレ>に演出上の意図を見出すというアプローチは、この作品(漫画)に対してはあまり有効ではありません。

それでも現地取材の過程で発見したことは多々ありました。そもそも非連続的な漫画のコマに描かれた背景は、モーションによって空間性を演出するアニメーションとは異なり、本来的に位置関係が掴みづらいものです。今回は現地で得た気づきを元に、登場人物の立ち位置や視線から推察できる作品内の動線を辿って、彼らの動きを現実の空間の中で立体的に捉えなおす試みをしてみたいと考えています。

 

P.7 1コマ目
総合福祉会館 MAP 01
高校生になった硝子が毎週火曜日に通う手話サークルの開催されている建物。ここは実際に大垣市内の福祉活動の拠点となっている場所です(→http://www.city.ogaki.lg.jp/0000009831.html)。

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P.8 4コマ目
総合福祉会館 MAP 01

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このコマの背景は実際に福祉会館内にあります。現地取材の際、二階フロアの北側にキャプの左奥に描かれている窓、および硝子の右奥にある電気マッサージ器、ソファ、掲示板、絵画等の存在を確認できました。ただし建物の外観と違って屋内は撮影の許可が必要であることと、許可をいただいたとしても施設の性質上、写真の掲載は望ましくないと考え、当ブログでは撮影も掲載も控えることにしました。

P.15 1コマ目
石田家(HAIR MAKE ISHIDA) MAP 不掲載
物語は将也の小学生時代の回想シーンへ。ここは将也の自宅であり、かつ母が切り盛りする理容店です。この店舗もモデルとなる理容店は実在しますが、同店の迷惑になることを考慮し、MAPの公開、および場所・店名を特定できる写真の掲載は控えます(モザイク掛けしました)。

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P.19 7コマ目
興文小学校 MAP 02
将也の通う水門小学校のモデルは大垣市立興文小学校です。ただし第1巻で描かれる舞台はほとんどが校内や教室で、部外者が立ち入ることの出来ない場所であるため、当然のことながらそれらの写真はありません(従って、内部の描写が実際に学校内をモデルにしているのかどうかも不明です)。当ブログの取材ポリシーとして、不法侵入に等しい行為を犯さなければ撮れないような写真は掲載しないという基本方針を定めており、特に学校関係の取材については、①公共の空間で誰もが見ることの出来る場所からの撮影に限定すること、②学校の生徒が写りこんだ写真はNGとし、モザイク掛けも含めて掲載しないこと、をルールとします。

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この校舎の写真は南門の外側から撮影したものです。よく見ると原作の絵は細部がところどころ実際の建物と異なります。第5巻で東側の正門付近が登場しますので、詳細はそちらで紹介することとし、第1巻の主要な舞台の写真はこの1枚のみに留めます。


P.22 1コマ目
美登鯉橋(みどりはし) MAP 03
『聲の形』全編を通じて最も重要な舞台が、四季の広場にある美登鯉橋(みどりはし)です*7『聲の形』の物語はいつも橋、川、もしくは水のそばで生起していることには注意が必要でしょう。劇中では幾つもの橋が描かれ、また登場人物は幾度もずぶ濡れになります。そこで交わされる言葉とドラマ。「橋」と「水」はこの物語の象徴的な映像言語と言ってよく、恐らく映画版でも存分に描かれるものと想像します。


さて『聲の形』における最も重要なキー・ポイントというべき美登鯉橋ですが、実は漫画版の連載終了後からアニメ版の公開までの間にすでに大きな風景の変化が起こっています。

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お分かりでしょうか?上の写真は2014年2月、『聲の形』連載期間中に撮影されたもの。下の写真は2015年11月に私が現地を初訪問した際に撮影したものです。『聲の形』の原作に描かれ、連載終了時(2014年11月)までは存在していた工場の建物が撤去され、代わりに建売住宅の建設が始まっていました。前の工場がいつまでこの場所にあったかについては、Google Street Viewでその痕跡を確かめることができます(2016年7月現在、確認可能です)。

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この画像は2015年5月撮影とのことですので、件の工場は『聲の形』の連載終了から半年の間に取り壊されていたことがわかります。そして現在は下の写真のような瀟洒な一戸建ての住宅が建っています(2016年1月撮影)。

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映画化の話を聞いた時に最初に考えたのが、この美登鯉橋の南向きのカットをどう描くのだろう?ということでした。ここは風景としてはやはり原作通り、工場のままの方が相応しいように思います。果たしてどのような背景になっているのでしょうか。

なお、工場が取り壊しされる前の2014年2月撮影の写真は、舞台探訪者コミュニティ(BTC)のスカイDJ様より頂戴いたしました。当ブログの記事内で掲載する工場の写り込んだ美登鯉橋の写真は、すべてスカイDJ様よりいただいたものです。貴重な写真の提供をありがとうございました。この場で御礼申し上げます。

●スカイDJ様のブログの『聲の形』舞台探訪記事
ホクロを結んで星座をつくれ!(舞台探訪) 聲の形


前段が長くなりましたが、P.22の1コマ目は今は無き工場の写真Ver.で掲載します。

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2016年現在、撮影するとこのような写真になります。

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P.25 1コマ目
美登鯉橋(みどりはし) MAP 03
こちらはもう少し下からのアングルで、原作のカットでも工場の窓が確認できます。なお、水門川は水深の浅い川ですので、飛び降りたら確実に怪我をします。決して真似しないように。

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"度胸試し"と称して仲間と川への跳び込みを繰り返す将也。日常の退屈から逃れるために興じていたこの遊びは、高校生になって硝子やかつての仲間と再会した後に起こるある事件と象徴的に結びつくことになります(これについては第6巻の記事で述べます)。
美登鯉橋はこの後も随所で登場しますので、他のアングルの写真はそちらで順次紹介します。


P.114 4-5コマ目
手話 「友達になりたい」 
このカットは舞台背景ではありませんが、『聲の形』全編の中でも特に重要な手話なので解説しておきます。最初のコマ(右側)の相手を指差すポーズは「あなた」(本来はこの前に自分を指差す「私」があるはずです)。次のコマ(左側)で腕を軽く曲げて、両の手のひらを胸の前で重ね合わせる形は「友達」を意味します(強く握るほど親愛の度合いが深くなります)。
つまり、「あなたと友達になりたい」

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しかし小学生時代の将也は手話を知らないため、この時、硝子が投げかけたメッセージを理解することができませんでした。それどころか硝子の筆談ノートを池の中に投げ捨ててしまいます*8。もしこの時、将也が硝子の「聲の形」を聞き取ることができていたら、それを受け止めることができていたら、その後の彼らの運命は大きく変わっていたことでしょう。なおこのシーンは、後に第2巻P.19-20でリフレインされることになります。今度は手話を学んだ将也から硝子へのメッセージとして・・・。ちなみに映画版の予告編でもこの手話は大きくクローズアップされていました。

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(左)「(自分を指差す)わたし」
(右)「(相手を指差す)あなた」

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(上)「(両の手のひらを胸の前で重ね合わせる)友達」 (いずれも映画『聲の形』本予告編より)


さて、ここで美登鯉橋から東側一帯に広がる「四季の広場」のMAPを掲載しておくことにします。以後、四季の広場周辺のカットの場所名はこのMAPに従うものとします。この地図では美登鯉橋は一番下(西側)です。

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P.131 2コマ目
美登鯉橋南詰(石畳の道 東向き) MAP 04
美登鯉橋の南詰から東方向を見たアングル。右側の建物が総合福祉会館です。奥の風景が真っ白に消されており、それが却って硝子と将也それぞれの母の存在を際立たせる効果を生んでいます。

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P.131 4コマ目
美登鯉橋南詰(石畳の道 西向き) MAP 04
こちらは上のカットとは真反対の方向を向いたアングルで、美登鯉橋南詰から西方向を見た構図です。

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P.132 1コマ目
自噴水モニュメント付近(石畳の道 南向き) MAP 08
前掲のカットから石畳の道を東進して、総合福祉会館の前で道なりに南向きに曲がった辺りから見た場面です。ここで母親二人は真っすぐ南へと向かい、将也は一人、虹の橋の下をくぐって、ウォーターガーデンへと向かいます。

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下の写真の奥から手前に伸びる遊歩道を歩いてきて、

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虹の橋のたもとをくぐって西へ向かう先にウォーターガーデンが見えます。

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P.132 5コマ目

ウォーターガーデン MAP 05
将也の眼前にあるのが、階上からふんだんに水が落ちてくる人工の滝のあるウォーターガーデンです。

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P.133 4コマ目
ウォーターガーデン MAP 05
ウォーターガーデンの下側にある休憩所。

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「デートスポットかここは・・・!!」という将也の台詞通り、実際にそれと思しき落書きが柱の随所に書き込まれていました。

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ここで踵を返して駆け出した将也は、今来た道を逆戻りし、さっき母と別れた場所からUターンして北へ向かいます。そこに虹の橋の橋詰があります。


P.134 7コマ目
P.135 1コマ目
音のモニュメント(ハーピアン) MAP 06
将也がボーンボーンと鳴らしているのは、虹の橋の上にある「音のモニュメント」の楽器(Harpian ハーピアン)です。第2巻で再び登場します。

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P.135 3コマ目
虹の橋 MAP 07
虹の橋から南西方向に見た図です。将也の左にあるのがハーピアンなので、作画の元になった写真はかなり奥からズームで引っ張り気味に撮っているようです。奥に見える建物が総合福祉会館。橋は実際の幅よりもやや狭く描かれています。将也の後を追ってきた硝子。

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■右耳のアクセサリーの謎/語られない物語
将也が何度も硝子の補聴器を壊していたことを教師から知らされた将也の母は、謝罪と弁償を兼ねて硝子の母に会いに行きます(上掲のP.131~135まではその過程です)が、実はこの場面の前後の描写から興味深い(しかし直接は語られない)あるひとつの事実が浮かび上がってきます。それは将也の母の右耳のアクセサリーの存在です。硝子の母に会う直前までつけていたはずの右耳のアクセサリーが、直後には無くなっており、以後、第7巻で物語が終わるまで、将也の母はただの一度も右耳にアクセサリーをつけることはありません。いつも左耳だけです。

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(左)第1巻P.130 将也の母は左右両耳に板状のアクセサリーをつけている。
(右)第1巻P.131 硝子の母との会談直前。

下のカットは硝子の母との会談が終わった直後の将也の母の姿です。拡大してよく見てみましょう。コミックスではサイズが小さいのでややわかりにくいのですが、引き伸ばして見ると彼女の右耳からアクセサリーが無くなっているだけでなく、右の耳朶、右頬、首筋、そしてハーフ・タートルネックのセーターの首周りに黒っぽい染みのような何かが描きこまれていることが分かります。その何かは恐らく彼女自身の「血」でしょう。

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(左)第1巻P.137 硝子の母との会談が終わった直後の将也の母。右耳のアクセサリーが無くなっている。
(右)第1巻P.137 左のカットの拡大図。よく見ると肌や衣服に血が付いていている。

第1巻のP.106-107で将也が硝子から補聴器をもぎとった時、彼女の右耳の一部が引きちぎれて怪我をするということがありました(P.107のカットでは硝子の右手に血が付着している様子が描かれています)が、もしかすると母親同士の対面の場において、このことを語るうちに激昂した硝子の母が娘にされた仕打ちへの仕返しとして将也の母からアクセサリーをもぎ取ったか、あるいは将也の母が(息子の行為への詫びのつもりで)自らアクセサリーをもぎ取ってみせたのか・・・*9。いずれにせよ、決してあからさまに描写されることはありませんが、ここにはそのような「語られない物語」があると私は思います。

第1巻について(その2)

将也を主犯とするクラスメイトの度重なる硝子へのいじめはついに学校の知るところとなり、クラス会で糾弾されることになった将也はやったのは自分だけではないと懸命に弁明しますが、その姿はむしろクラスメイトの目にはひとり暴走する将也が周囲に罪を着せてまきこもうとしている*10ように見えたのでしょう。その日を境に、今度は将也自身がいじめの標的となります。風向きが変わったかのように、運命の報いのように・・・*11

因果応報とでも言わんばかりに将也に降りかかってきたかつての仲間たちの無情な仕打ち。その怒りの矛先を硝子に向ける将也。ついに二人は真正面からぶつかり合い、取っ組み合いの大喧嘩を始め、その後、硝子は学校を去っていきます。そして将也が初めて知ることになる硝子が自分にしてくれていたこと。その思いやり。

硝子に対して自分が犯した仕打ちの本質に気づき、悔恨の思いを抱えたまま、次第に周囲から孤立していく将也。周囲と何より自分自身への激しい怒りと遣り切れない想いを抱え込んだかつての悪ガキは、いつしか未来に絶望した物憂げな高校生になっていました・・・。

 

 P.185 3コマ目

総合福祉会館 MAP 01
物語は将也の回想を終え、第1巻の冒頭に戻り、高校三年生になった硝子との再会のシーンに帰ってきます。再び、総合福祉会館です。

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【本文から溢れた幾つかの考察】

■名前のない母親/極限で似るもの

上述の「■右耳のアクセサリーの謎/語られない物語」でのいささか回りくどい文章表現で既にお気づきかと思いますが、将也の母も硝子の母もこれほど主要なキャラクターであるにも関わらず、最後までその名前が明らかにされることはありません。これはかなり不可解なことです*12

しかしもう少し踏み込んで将也と硝子を軸に考えてみると、そもそも二人ともよく似た発音の名前であり、家ではともに「ショーちゃん」と呼ばれていて(第1巻P.74)、ともに父親が不在で(第4巻32話、第7巻P.57)、ともに「いじめ」の標的となったこと(第1巻)・・・など、二人の近似性を際立たせる要素が物語の中に幾つも織り込まれていることに気づかされます。

将也にとってはさながら異星人のように見えた硝子が、実は物語の初めから将也との相似形として企図されており、まったく異なる境遇にありながら、極めて良く似た者同士として描かれている点には注目しておくべきでしょう。それはほとんど運命的な出逢いと言っても過言ではありません。二人の母親がともに(劇中では)個人としての名前を持たない「母親」という属性のみを与えられた存在として設定されていることもまた、将也と硝子が似て非なる者でありながら極めて近しい存在であることを印象づける装置として機能しているように思えます。



■いじめと向き合う
「いじめ」の本質とは何でしょうか?学校という閉じた共同体の中で、横並びの均質性と画一性を求められると同時に、個性伸長と競争という正反対の価値観を要求される子供たち。その矛盾の狭間で次第に圧力を増してゆくストレス・・・。

日本では1980年代以降、急激に表面化することになった学校(とりわけ小学校)での「いじめ」問題に鋭い言及を投げかけた先駆的な論考として赤坂憲雄の『排除の現象学』という名著があります。そこから幾つか印象的な言葉を拾ってみましょう。今ではやや古い時代に属する論考ですが、その視点はまったく古びていません。そしていずれも『聲の形』の「いじめ」の様相を読み解く上で示唆を与えてくれるものです(文章はいずれも赤坂憲雄『排除の現象学』(ちくま学芸文庫:1995年)から抜粋しました)。


「現在のいじめに特異なことに、いじめが一対一ではなく、一人対集団(の全員)というかたちで行われるという現実がある。つまり、いじめはきわめて厳粛に、全員一致の意志に支えられた供犠として執行される。いじめられっ子は、集団のアイデンティティの危機を救済するために捧げられる生け贄(スケープ・ゴート)なのだ」(同書「第1章 学校/差異なき分身たちの宴」P.31)

「いじめの標的は、もはや特定のだれかではない。誤解を恐れずにいえば、だれでもいいのだ。状況の恣意が犠牲者を決定する。いじめはほんとうに些細なことからはじまる。(中略)平均値(像)からの隔たり・偏奇をゆいいつの規準として、子供たちは教室のなかの自分の位置(アイデンティティ)をはかりつつ、いじめられっ子を抽出する」(同P.37-38)

「いじめがこうして厳粛なる供犠の庭であるかぎり、子供はだれ一人そこから逃れることを許されない。しばしばいじめに加担することを消極的にであれ拒んだ者が、裏切り者として制裁され、いじめのあらたな標的に指名されるのは、そのためである。(中略)子供たちはいじめが倫理的には「悪」であることを知りつつ、いじめを構成する場自体の孕む圧倒的な強制力の前になすすべもなく、翻弄されている」(同P.67)

「あきらかな差異の具現者が存在するから、いじめが起こるわけではない。むしろ、差異はあらかじめ存在するのではなく、そのつどあらたに発見され、つくられるのである」(同P.75)

他人と異なっているという特徴は「そのつど」発見され、つくられ、いじめの根拠として再生産される。その規準には善も悪もなく加害者はいつでも被害者へと入れ替わる・・・。私が『聲の形』を一読して驚いたのは、この物語がまず加害者の目線で語られていたこと。そして加害者が容易に被害者へと入れ替わるという「いじめ」の本質的な部分を生々しく描き出していたことでした。少なくとも私はこのような視点を持った物語をこれまでに読んだことがありません*13

差異を喪って同質化した集団は、秩序形成と組織維持のために、微かな差異を認めた者を排除しようと暴力的な行動へと突き進んでいきます。そこで要請されるのは<生贄>です。

差異なき分身たちの宴の場たる<いじめ>、全員一致の生贄として召喚される<いじめられっ子>。逆らえば自分がやられるというその暗澹たる光景。学校という秩序形成の場において、いじめる側は自分達にその意識や自覚がないのが普通です。将也や(第7巻での)植野のようにかつて自分が犯した行為に贖罪意識を抱くことの出来る者はむしろ少ないといってもいいでしょう。このような困難なテーマに挑んだ『聲の形』という作品を描いた作者の胆力にあらためて敬服させられます*14



■「聲」の文字
 
『聲の形』という表題を見ると、まず"聲"の一文字に目が留まります。"声"ではなく旧字体の"聲"。"聲"の字は「耳」の字の左上にある「声」、右上の「殳」で構成されています。「殳」は投の字の旁(つくり)であり、鉾(几)を手(又)で立てることや手を使って鉾が立つように投げることを意味する「手を使う動作」を示す部首です。つまり"聲"の一文字は「声だけではない手を使った身振り(=手話)も含めた相手に伝えるメッセージ」のことであり、人の声と身振りが対等の関係で耳の上にあることを意味します。この一文字こそは作品の内容を視覚的に表象する上で最適な文字と言えるでしょう。更に"形"とは直接的には手を使った会話の身振り(=手話)を指し、間接的には声や仕草で相手に伝えるメッセージの内容や形象を表わします。

つまり『聲の形』という表題に含まれる二つの漢字の持つ重層的なニュアンスは、それだけでこの作品のモチーフをほぼ言い尽くしている訳です。声を発することだけが想いを伝える手段ではありません。また一方でコミュニケーションの手段が複雑多岐に渡るほどに、(バベルの混乱のごとく)他者に意思を伝えることの困難性をも内包することになります。

ちなみに『聲の形』の原作に付記された英題は、"The Shape of Voice"ですが、残念ながら"聲"と"形"という二文字が表象する深く豊かなニュアンスまでは表現できていません。表意文字である漢字の特性を上手く使った『聲の形』という表題の上手さにあらためて唸ります。

一方で映画版の英題は"A Silent Voice"です。これは海外版のコミックスの英題と同じもので、定冠詞の"The"ではなく不定冠詞の"A"であることから、特定の誰かではない物言わぬ声が発する「聲」の意味を如実に伝えるもので、とてもいい英題だと思います。

(2016/09/17追記: 映画『聲の形』を公開初日に鑑賞したところ、スクリーンに映し出された英字タイトルは、原作と同じ"The Shape of Voice"の方でした。いつの間に元に戻ったのでしょうか。うーむ(笑)。)


第2巻の記事へ続きます。 

当記事に掲載した『聲の形』、および映画『聲の形』の画像および台詞は、著作権法第32条に定める研究その他の目的として行われる引用であり、著作権は全て、大今良時・講談社/映画聲の形製作委員会に帰属します。


(2016/8/16 記)

 

*1:おおいま・よしとき。女性作家です。

*2:2008年の受賞からリライト版を経て、連載開始が始まる2013年まで丸5年。その間、別の連載作品を持ちながらも、作者の大今さんはずっとこの『聲の形』を温め続けていた訳です。その執念にも似た意志の強さには驚かされます。

*3:『聲の形』以前では2006年に公開されたアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の映画『バベル』で聾者の日本人女子高生役を演じた菊地凛子の描き方とその演技に対して、聾者のコミュニティから「聾者に関する誤ったイメージを流布させる」といった抗議の声が上がったことがあります(http://www.deaf.or.jp/babel/ )。この件に関しては、同作の菊地凛子の演技はむしろ上手いと思って観ていた私にとって、聾者コミュニティから何故これほど激しい反応があるのか理解できず、聾者と聴者との間にある大きな認識の隔たりを感じて酷くショックを受けたことを憶えています(今も分かったとは言えません)。『聲の形』を掲載するに当たって同じような物議を醸し出すであろうことは出版社側でも想定の範囲内であったでしょうし、加えてそこに「いじめ」が重なってくるのですから、掲載の判断を下すまでに相当な議論が繰り返されたであろうことは想像に難くありません。『聲の形』掲載に至るまでの経緯についてはWikipediaにも詳細が記されていますのでぜひご一読ください。

*4:記事の章立ては悩みましたが、あえて第1巻から第7巻まで巻単位で記事をまとめることにしました。原作自体、コミックスにまとめられることを想定してページ配分を決めていたそうなので、この作品は1冊がただのページの寄せ集めではなく確固たる意志の下にまとめられています。従ってこの作品の本質に迫るには、その流れを丹念に追いかける作業が望ましいと思った次第です。

*5:2年3ヶ月ぶりです

*6:正確には2016年8月時点で計12回です。現在の私の居住地は宮崎県なので、距離的な負担もさることながら、時間的な制約がきつくて大変でした。

*7:映画版のキー・ビジュアルもこの場所が選ばれました。

*8:硝子の「友達になりたい」という想いを真っ向から踏みにじる将也のこの行為が硝子にとって途轍もないダメージであったことは、後に結絃の回想で断片的に描かれ、第6巻P.52で明らかにされる硝子の心の叫びに明らかです。

*9:私は恐らく後者だと思います。

*10:第6巻P.134の島田の発言。

*11:いじめの標的が将也に変わってもなお、第1巻P.149-150に見られるように硝子へのいじめが並行して続いているカットがあります。この描写に私は奇異な思いを抱いていたのですが、それは第6巻P.137の伏線となるものでした。上手い!

*12:硝子の祖母でさえ、葬儀場のシーンで名前が明かされているにも関わらずです。

*13:更に言えば、『聲の形』の凄さはその先を描いてみせたことにあります。元加害者と元被害者が時を越えて巡りあい、そこで和解を成すことの困難性や元加害者の抱く贖罪意識や罪悪感、元被害者の自責の念、周囲の人々の理解と無理解、怒りと悲しみなどをさながらケース・スタディのように細やかに描出していることに感嘆しました。

*14:原作者の大今良時さんが連載版の原型となる読み切り版『聲の形』を描いたときは、まだ19歳の若さだったということも驚くべき事実です。